聖書日課 コロサイの信徒への手紙2章(新共同訳 新約pp.369-371)
人間は、主なる神が定められた正しい道を無視し、或いは知ろうともせず、自分の感じ方、考え方を第一に歩いてきた。これを「罪」と言う。パウロは次のように述べている。
「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません」(8節)。
主なる神を排除した仮説に基づく理論によって、人は迷子になり、自分が何者かが分からなくなってしまう。そればかりか、自分の基準で他の人を裁き、互いに対立し、傷つけ合うようになってしまう。「人間の言い伝えにすぎない哲学」は「むなしいだまし事」であり、「キリストに従うもの」ではない。
人は、罪のために主なる神との関係を失い、体も魂も霊も滅んでしまう。
聖書は、この「罪」を、主なる神に対する返すことの出来ない多額の借金として表現している(マタイによる福音書18章23~27節)。私達は、罪の「債務証書」(14節、新改訳)によって責め立てられている。
しかし、私達の「罪」という負債を永遠に全部支払って下さった方がいる。
「肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました」(13~14節)。
イエス・キリストが十字架で流して下さった尊い血潮によって、私達を罪に定めていた「債務証書」は、「十字架に釘付けに」されて力を失った(14節)。私達を押さえつけていた「もろもろの支配と権威」も十字架の前に屈服した(15節)。
バプテスマを受けた時、私達は「キリストと共に葬られ」た。また、「キリストを死者の中から復活させた神の力を信じ」る信仰によって、私達は「キリストと共に復活させられた」(12節)。私達は、死んでも生きていても、イエス・キリストと共に存在する者となった。私達はイエス・キリストの十字架による勝利者である。この勝利をひっくり返そうとするいかなる試みも十字架の前で崩れ去る。
罪の意識に苛まれる時、「イエス・キリストが十字架の血潮によって、私の債務証書を全て無効にして下さった」と告白しよう。イエス・キリストの愛と命が私達を覆う。そして、罪が赦されていることを体験的に知ることが出来る。
西原新生バプテスト教会
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