ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 コロサイの信徒への手紙2章

聖書日課 コロサイの信徒への手紙2章(新共同訳 新約pp.369-371)

 人間は、主なる神が定められた正しい道を無視し、或いは知ろうともせず、自分の感じ方、考え方を第一に歩いてきた。これを「罪」と言う。パウロは次のように述べている。

「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません」(8節)。

 主なる神を排除した仮説に基づく理論によって、人は迷子になり、自分が何者かが分からなくなってしまう。そればかりか、自分の基準で他の人を裁き、互いに対立し、傷つけ合うようになってしまう「人間の言い伝えにすぎない哲学」「むなしいだまし事」であり、「キリストに従うもの」ではない。

 人は、罪のために主なる神との関係を失い、体も魂も霊も滅んでしまう

 聖書は、この「罪」を、主なる神に対する返すことの出来ない多額の借金として表現している(マタイによる福音書18章23~27節)。私達は、罪の「債務証書」(14節、新改訳)によって責め立てられている。

 しかし、私達の「罪」という負債を永遠に全部支払って下さった方がいる。

「肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました」(13~14節)。

 イエス・キリストが十字架で流して下さった尊い血潮によって、私達を罪に定めていた「債務証書」は、「十字架に釘付けに」されて力を失った(14節)。私達を押さえつけていた「もろもろの支配と権威」も十字架の前に屈服した(15節)。

 バプテスマを受けた時、私達は「キリストと共に葬られ」た。また、「キリストを死者の中から復活させた神の力を信じ」る信仰によって、私達は「キリストと共に復活させられた」(12節)。私達は、死んでも生きていても、イエス・キリストと共に存在する者となった。私達はイエス・キリストの十字架による勝利者である。この勝利をひっくり返そうとするいかなる試みも十字架の前で崩れ去る。

 罪の意識に苛まれる時、イエス・キリストが十字架の血潮によって、私の債務証書を全て無効にして下さった」と告白しよう。イエス・キリストの愛と命が私達を覆う。そして、罪が赦されていることを体験的に知ることが出来る。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119
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証し「他人が作った価値観で人生を歩まないために」

「他人が作った価値観で人生を歩まないために」
柏本 隆宏

 私は1980年、兵庫県に生まれました。学校のテストでいつも平均点以上取っていたこともあり、両親は私を地元の有名進学塾に通わせてくれました。その結果、志望校に合格出来ましたので、その点では両親に、またその塾に感謝しています。しかし、その塾に通い、「復習テストの点数は平均以上か」「学力テストの順位や偏差値はどうか」と絶えず人との比較に晒される中で、「あの人はこうだが、自分はこうだ」と何事においても他人と自分を比較し、無意識のうちに人を格付けする思考法が染み付いてしまいました。
 その後も私は色々な〈鎖〉を自分で作って自分を縛っていました。京都の或る私立大学の附属校に入学すると、自分より成績の良い同級生を妬みました。学力だけでなく、容姿も良く、コミュニケーション能力も高く、勉強も遊びも恋愛も要領良くこなす同級生を羨みました。また、親が医師や弁護士、大学教授、或いは会社の社長の同級生に対しては、「自分は生まれた時点で既に負けている」と思いました。そして、父がサラリーマンであることに劣等感を持ち、そのため当時は父との関係が良くありませんでした。
 高校生の時にイエス・キリストを信じるようになった後も、この思考法からなかなか抜け出すことが出来ませんでした。大学に入ると、医学部で学ぶ同級生や、司法試験の勉強をしている同級生と、いずれ同窓会で会う時のことを思い描き、彼らと張り合えるよう、大学の教員になりたいと願い、大学院に進学しました。しかし、研究者としての資質のなさを思い知らされるだけでした。学会などに参加してみると、自分とさほど年齢が変わらないのに、優れた研究発表をしている人が沢山いて、別の世界の住人か宇宙人のように見えました。
 その後、地元の生活協同組合で働き出すと、私は、人の評価を絶対視し、周囲に適合しようとしました。その結果、自分を見失い、対人恐怖に陥ってしまいました。当時、ネクタイの色や柄、着ているワイシャツ、履いている靴、持っている鞄などが非常に気になりました。また、人の一言一言が異様に重たく感じました。相手が自分にどういう言葉を吐くか、そればかり心配しました。そのため、人と話をする時、いつも声が上擦るようになりました。
 今から考えると、全く無意味な苦悩でした。問題を自分で作り出していました。「何故私はこんなことで苦しんでいたのだろう」と思います。劣等感は、気付かないうちに私の人生を蝕み、台無しにしていました。しかも、本当はもっと早くそこから脱出することが出来たのです。

「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」(ガラテヤの信徒への手紙5章1節)。

 私は、自分と他人を比較し、落ち込んだり優越感に浸る原因が、イエス・キリストではなく、人を主とする〈偶像礼拝〉にあることに漸く気付きました。そして、この〈偶像礼拝〉をずっと続けていたら、自分を完全に失い、他人が作った価値観で人生を歩むことになってしまうと分かり、人に救ってもらおうとするのをやめることにしました。すると、いつも左右を見て、他人がどうするかを気にしていた時よりも、心が楽になりました。
 イエス・キリストは、私達を自由にされる方です。イエス・キリストにしっかり繋がる時、私達は、人を恐れ、劣等感に縛られることから解放されます。他の人と自分を比較して、「あれもない、これもない」と嘆く代わりに、自分に与えられているものを主なる神に感謝出来るようになります。自分の弱さを弱さとして認め、受けとめることが出来るようになります。その時、私達の生活も変わってきます。今自分に与えられている賜物を用いて、精一杯努力すればいいと考えることが出来るようになり、もっと楽に、もっと楽しく生きられます。

「人を恐れると、わなに陥る。主に信頼する者は安らかである」(箴言29章25節、口語訳)。

教会への問い合わせについて

教会への問い合わせについて
 現在、教会堂には牧師・教会員が常駐していません。協力牧師は、平日沖縄県内の企業で正社員として勤務しており、毎週日曜日集会がある日(不定期、直近の週報の報告をご参照下さい)、勤務が休みの日(国民の祝日など)に、自宅から教会堂に通う形で奉仕をしております。
 協力牧師は教会堂に来たら、まず留守番電話のメッセージを確認します。しかし、せっかくお電話をいただいたのに、お名前・連絡先が分からないため、こちらから折り返しお電話を差し上げられなかったことが過去に何度かありました。
 教会宛てのメールは毎日確認しておりますので、お急ぎの方は、誠に申し訳ありませんが、下記のメールアドレスにご連絡いただきますよう、お願い致します。また、お電話でお問い合わせの際には、上記の事情により確認が少し遅くなりますことを何卒ご承知おき下さい。その上で、お名前と電話番号をお知らせいただければ、こちらから折り返しご連絡を差し上げることが出来ます。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

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【BOOK】倉松 功, 赤木 善光『ルターとカルヴァンの神学』p.166

赤木 善光「カルヴァンの神学」倉松 功, 赤木 善光『ルターとカルヴァンの神学』現代と教会新書, 東京: 日本基督教団出版部, 1964年, p.166

「ところでカルヴァンによると聖礼典の目的は、わたしたちを『キリストに向かって手を取ってみちびくこと』、『絵のように、彼を再現し、かつわたしたちに知らしめること』にあるのですが、バプテスマは『わたしたちがきよめられ、かつ洗われること』、聖餐は『わたしたちがあがなわれたこと』をあかしするものでありました。つまり二つの礼典はいずれもキリストの救いのみわざの要約であり、かつ聖霊の媒介によってわたしたちをしてキリストにあずからせるものであります」

【BOOK】倉松 功, 赤木 善光『ルターとカルヴァンの神学』pp.107-108

赤木 善光「カルヴァンの神学」倉松 功, 赤木 善光『ルターとカルヴァンの神学』現代と教会新書, 東京: 日本基督教団出版部, 1964年, pp.107-108

「こういうカルヴァンの考え方から、そのローマ教会に対する批判の仕方もおのずからルターの場合とはニュアンスが違ってきます。ルターの場合は、その信仰義認の立場から、ローマ教会の宗教のあり方が律法主義的であるという事がその批判の中心でありましたが、カルヴァンの場合はそれだけでなく(ルターと同じ批判をしていることは言うまでもありません)、ローマ教会が、聖書という神によって定められた正しい秩序に従わないで、人間の手になる規則をつくり、これに従っているという点、つまり間違った秩序によって運営されているという点にも同じような力点が置かれていました。彼がこれを迷信と呼び、また自分自身の回心を『教皇主義の迷信から』の脱却としているのもこの理由によるものであります。いわゆる『カルヴァンの聖書主義』もこのような宗教即秩序という考えに由来するものと言えましょう」

祈り フィリピの信徒への手紙4章

祈り フィリピの信徒への手紙4章(新共同訳 新約pp.365-367)

 天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの恵みの御手の中に握り、支えて下さることを心から感謝致します。
 天のお父様、私達は色々なことで思い煩います。自分自身のこと、或いは自分の愛する者のことで思い煩います。恐れや不安、不満に心が揺れることがあります。そのような時、私達は〈自分〉という枠の中でしか考えることが出来なくなっており、〈自分〉の中で堂々巡りをしてしまっています。
 主よ、私達が思い煩いに囚われそうになる時、私達の目をあなたに向けさせて下さい。あなたは、私達の考えに優るご計画をお持ちです。私達の思いの届かないところにまで、あなたのご配慮は届いています。あなたは私達に「必要なものをすべて満たしてくださいます」(19節)。私達の目をあなたに向ける時、思い煩いの中にあっても感謝をもって祈れるようになっていきます。思い煩いがあなたへの信頼に変わっていきます。全てはあなたの御手の中で最善とされるということを信じ、今日も「あらゆる人知を超える神の平和」(7節)の中に過ごすことが出来ますように。安心しながら、平安の中で「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ」「求めているもの」をあなたに「打ち明け」ることが出来ますように(6節)。
 天のお父様、あなたがイエス・キリストによって、私達に与えて下さった一致を心から感謝致します。その一致を保っていくために、お互いが「キリストの内にいる者」(3章9節)であること、お互いがイエス・キリストのために生き、「福音のために」「共に戦」う者であることを深く覚えさせて下さい。そして、あなたが望んでおられる教会の一致のために、私達を「主において同じ思いを抱」く、あなたの「真実の協力者」として下さいますように(2~3節)。主よ、あなたは私だけでなく、兄弟姉妹お一人お一人を握って下さっています。兄弟姉妹をどうかお導き下さい。あらゆる危険と災いからお守り下さい。
 感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

聖書日課 フィリピの信徒への手紙4章

聖書日課 フィリピの信徒への手紙4章(新共同訳 新約pp.365-367)

 教会の分裂はパウロが心を痛めた問題の一つである。コリントの教会では四つの分派が出来、彼らは互いに争った。それを見て、パウロ「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか」(コリントの信徒への手紙一1章13節)と嘆いた。

 フィリピの教会ではエボディアとシンティケを中心に葛藤が起こっていた(2節)。パウロは、彼女達について「福音のためにわたしと共に戦ってくれた」婦人であると言っている(3節)。エボディアとシンティケは、パウロを助け、初期の頃から熱心に教会に仕えていたのだろう。そのような彼女達が今、互いに争う関係になっていた。

 パウロは彼女達に「主において同じ思いを抱きなさい」(2節)と勧めた。これは字義的には「同じことを考えなさい」という意味である。イエス・キリストが抱いていた思いを抱く時(2章2節参照)、キリスト者イエス・キリストにあって一つになることが出来る

 とはいえ、私達の「心と考え」(7節)に関する教えに従うのは、実に難しいことである。パウロが語っている「主において常に喜びなさい」(4節)という教えについても、「喜びが思い通りになるものか」と考える人がいるかも知れない。

 しかし、ここでパウロが語っているのは、単に感情のコントロールの問題ではない。喜びの源である主なる神を見上げることである。霊の目を主なる神に向ける時、私達は喜ぶ理由を見出すことが出来る

 人生の心配事は誰にでもある。しかし、それを「祈りと願い」(6節)に変える時、私達は主なる神を見上げることが出来る。そして、「あらゆる人知を越える神の平和」(7節)がこの世の複雑な問題よりも大きいと知ることが出来る。

「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いを献げ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」(6~7節)。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119
メールアドレス

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https://nschrist1972.hatenablog.com/
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【BOOK】鈴木 光『伝道のステップ1、2、3』p.23

鈴木 光『伝道のステップ1、2、3――信徒と牧師、力を合わせて』東京: 日本キリスト教団出版局, 2018年, p.23

「たとえば、教会の外に掲示板や、インターネット上にホームページなどがあるのはいいのだけれど、情報が更新されていないと、この教会は活動しているのかと疑われてしまうという指摘は、『なるほど、その通り!』と思わされました。
 また、多くの教会が何らかの形で持っている『新来者カード』は、本当に必要なのかという疑問も提示されています。そもそも、個人情報を初めて来た宗教施設で書かされることの不安感というのは、客観的に見れば確かに相当なものだと思います。
 私の仕えている教会でも、この本を学んだことをきっかけに新来者カードをやめて、簡単な任意のアンケートだけを準備することにしました。何しろ、教会で多くの働きを担っている人ほど、得てして教会生活が長くて『新来者』の視点を失いがちですから、注意しなければならないと気づかされました」

【BOOK】越川 弘英『礼拝』p.146

越川 弘英『礼拝』信仰生活の手引き, 東京: 日本キリスト教団出版局, 2013年, p.146

「宣教のわざは宣教する相手だけではなく宣教する私たち自身が新たな現実を発見する契機となります。それはまさしく『心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえる』ようになる経験です(ローマ12・2)。キリスト者は宣教にあずかることを通してますますキリスト者となっていくのであり、教会もまた宣教を通してますます教会となっていくのだと言えるでしょう。教会が教会であろうとするなら、私たちは必然的にこのような宣教共同体とならざるをえないのです」

【BOOK】C. シュトローム『カルヴァン』p.62

Christoph Strohm, Johannes Calvin: Leben und Werk des Reformators, C. H. Beck Wissen in der Beck’schen Reihe; 2469, München: C. H. Beck, 2009
(菊地 純子訳『カルヴァン――亡命者と生きた改革者』東京: 教文館, 2016年, p.62)

「教会規則の初めのところで強調されているのは、よく整えられた教会とは、作法に則って頻繁に祝われている聖餐式に中心があるということだ(CO 10/1, 5f; OS 1, 369を参照)。神聖に、特別な畏敬をもって参加する以外に、勇気はいらないといってよい。だからこそ、教会の中で良い秩序を保つために必要なのは、教会法規を維持することと、喜んで従順に聖なる神の言葉に導かれることがないような人たちを、彼らの良化のために、聖餐式から閉め出すよう気をつけることだ。教会規律の他に、教会規則は特に会衆讃美と若者の教理問答に特別な価値を置いている」