ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

証し「他人が作った価値観で人生を歩まないために」

「他人が作った価値観で人生を歩まないために」
柏本 隆宏

 私は1980年、兵庫県に生まれました。学校のテストでいつも平均点以上取っていたこともあり、両親は私を地元の有名進学塾に通わせてくれました。その結果、志望校に合格出来ましたので、その点では両親に、またその塾に感謝しています。しかし、その塾に通い、「復習テストの点数は平均以上か」「学力テストの順位や偏差値はどうか」と絶えず人との比較に晒される中で、「あの人はこうだが、自分はこうだ」と何事においても他人と自分を比較し、無意識のうちに人を格付けする思考法が染み付いてしまいました。
 その後も私は色々な〈鎖〉を自分で作って自分を縛っていました。京都の或る私立大学の附属校に入学すると、自分より成績の良い同級生を妬みました。学力だけでなく、容姿も良く、コミュニケーション能力も高く、勉強も遊びも恋愛も要領良くこなす同級生を羨みました。また、親が医師や弁護士、大学教授、或いは会社の社長の同級生に対しては、「自分は生まれた時点で既に負けている」と思いました。そして、父がサラリーマンであることに劣等感を持ち、そのため当時は父との関係が良くありませんでした。
 高校生の時にイエス・キリストを信じるようになった後も、この思考法からなかなか抜け出すことが出来ませんでした。大学に入ると、医学部で学ぶ同級生や、司法試験の勉強をしている同級生と、いずれ同窓会で会う時のことを思い描き、彼らと張り合えるよう、大学の教員になりたいと願い、大学院に進学しました。しかし、研究者としての資質のなさを思い知らされるだけでした。学会などに参加してみると、自分とさほど年齢が変わらないのに、優れた研究発表をしている人が沢山いて、別の世界の住人か宇宙人のように見えました。
 その後、地元の生活協同組合で働き出すと、私は、人の評価を絶対視し、周囲に適合しようとしました。その結果、自分を見失い、対人恐怖に陥ってしまいました。当時、ネクタイの色や柄、着ているワイシャツ、履いている靴、持っている鞄などが非常に気になりました。また、人の一言一言が異様に重たく感じました。相手が自分にどういう言葉を吐くか、そればかり心配しました。そのため、人と話をする時、いつも声が上擦るようになりました。
 今から考えると、全く無意味な苦悩でした。問題を自分で作り出していました。「何故私はこんなことで苦しんでいたのだろう」と思います。劣等感は、気付かないうちに私の人生を蝕み、台無しにしていました。しかも、本当はもっと早くそこから脱出することが出来たのです。

「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」(ガラテヤの信徒への手紙5章1節)。

 私は、自分と他人を比較し、落ち込んだり優越感に浸る原因が、イエス・キリストではなく、人を主とする〈偶像礼拝〉にあることに漸く気付きました。そして、この〈偶像礼拝〉をずっと続けていたら、自分を完全に失い、他人が作った価値観で人生を歩むことになってしまうと分かり、人に救ってもらおうとするのをやめることにしました。すると、いつも左右を見て、他人がどうするかを気にしていた時よりも、心が楽になりました。
 イエス・キリストは、私達を自由にされる方です。イエス・キリストにしっかり繋がる時、私達は、人を恐れ、劣等感に縛られることから解放されます。他の人と自分を比較して、「あれもない、これもない」と嘆く代わりに、自分に与えられているものを主なる神に感謝出来るようになります。自分の弱さを弱さとして認め、受けとめることが出来るようになります。その時、私達の生活も変わってきます。今自分に与えられている賜物を用いて、精一杯努力すればいいと考えることが出来るようになり、もっと楽に、もっと楽しく生きられます。

「人を恐れると、わなに陥る。主に信頼する者は安らかである」(箴言29章25節、口語訳)。