ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 詩編119編9~16節

聖書日課 詩編119編9~16節(新共同訳 旧約p.959)

「若者」とは、必ずしも年齢的に若い人のことではない。信仰経験が乏しく、霊的に未熟な者という意味である。経験不足で未熟な信仰者が、清い歩みを続けていくために第一に必要なものは何か? それは、主なる神の「御言葉どおりに」歩むことである。

「(ベト)どのようにして、若者は/歩む道を清めるべきでしょうか。あなたの御言葉どおりに道を保つことです。心を尽くしてわたしはあなたを尋ね求めます。あなたの戒めから/迷い出ることのないようにしてください。わたしは仰せを心に納めています/あなたに対して過ちを犯すことのないように。主よ、あなたをたたえます。あなたの掟を教えてください。あなたの口から与えられた裁きを/わたしの唇がひとつひとつ物語りますように。どのような財宝よりも/あなたの定めに従う道を喜びとしますように。わたしはあなたの命令に心を砕き/あなたの道に目を注ぎます。わたしはあなたの掟を楽しみとし/御言葉を決して忘れません」(9~16節)。

 そのためには、聖書の御言葉を「心に納め」、御言葉を「ひとつひとつ物語り」、御言葉の「命令に心を砕き」、その教えに「目を注」ぐことが大切である。

 但し、それは決して、掟に縛られてとか、無理矢理命令されてというような、無理強いや強制ではない。この詩人もこう言っている。

「どのような財宝よりも/あなたの定めに従う道を喜びとしますように」

「わたしはあなたの掟を楽しみとし/御言葉を決して忘れません」

 そう、主の「定め」は何よりも「喜び」である。そして、主の「掟」「楽しみ」である。「喜び」「楽しみ」を味わいながら歩む道が主の「道」であり、清い歩みである。決して堅苦しく憂鬱な歩みなどではない。何故なら、それは、愛の主と共に歩む道であり、主の恵みに溢れて生きる人生だからである。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

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聖書日課 詩編119編1~8節

聖書日課 詩編119編1~8節(新共同訳 旧約pp.958-959)

 第119編は、詩編の中で最も長い詩で、176節にも及ぶ。最も短い第117編が僅か2節しかなかったことと比べると、何と88倍もある。

 その上、第119編は、ただ長いだけでなく、技巧的にも優れている。全体が22の段落に分かれている「アルファベットによる詩」(いろは歌)となっている。しかも、各段落は8節ずつ形成され、全ての節が同じヘブライ語のアルファベットで始まっているという、細かな技巧が凝らされている。

 しかし、それ以上に大切なのは内容である。中心テーマは、主なる神の教え(掟)の有効性とその意義の探求であり、第119編には、この主題に沿った重要な教えが沢山散りばめられている。

 これほど長く、これほど大切な教えが満載の詩をたった1回で終わらせてしまうのは勿体ない。そこで、第119編は細かく区分して丁寧に読んでいきたい。

「(アレフ)いかに幸いなことでしょう/まったき道を踏み、主の律法に歩む人は。いかに幸いなことでしょう/主の定めを守り/心を尽くしてそれを尋ね求める人は。彼らは決して不正を行わず/主の道を歩みます。あなたは仰せになりました/あなたの命令を固く守るように、と。わたしの道が確かになることを願います/あなたの掟を守るために。そうなれば、あなたのどの戒めに照らしても/恥じ入ることがないでしょう。あなたの正しい裁きを学び/まっすぐな心であなたに感謝します。あなたの掟を守ります。どうか、お見捨てにならないでください」(1~8節)。

 今日の第1段落(1~8節)では、開口一番「いかに幸いなことでしょう」と、「主の道を歩」「幸い」が語られている。しかも、その「道」は、単に法則や理論を学んで人生の教訓にするというようなものではなく、詩人が何度も繰り返し「あなた」と呼ぶ、主なる神との親しく深い交わりの中で教えられ、導かれる道であり歩みである。

 つまり、「主の道を歩」むとは、何よりもまず主ご自身を慕い求めることであり、主と交わり、主と共に生きることである。そう考えるだけでも、とても安心で、嬉しい気持ちになる。だから、この詩人も、次のような言葉で書き始めたのだろう。

「いかに幸いなことでしょう/まったき道を踏み、主の律法に歩む人は。いかに幸いなことでしょう/主の定めを守り/心を尽くしてそれを尋ね求める人は」

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聖書日課 詩編118編

聖書日課 詩編118編(新共同訳 旧約pp.957-958)

 第118編は、人を「恐れ」ず主なる神に信頼することを勧める詩であり、信頼に応えて下さる主なる神をほめたたえる〈賛美の詩編〉でもある。今日は、この中の一つの御言葉に目を留めたいと思う。

「家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった。これは主の御業/わたしたちの目には驚くべきこと。今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを」(22~25節)。

 これは、新約聖書において、イエス・キリストがたとえ話の中で引用された箇所として知られている(マタイによる福音書21章33~44節)。

 建築途中の立派な家がある。ところが、その家の土台を見ると、一番肝心な支えとなる土台石が据えられていない! 一体どうしたことか? 慌てて目をやると、土台となるべき石が、大工によって脇に除けられたままになっていた。

 この退けられた石こそが、主イエス・キリストである。イエス・キリストは、当時の政治的・宗教的指導者――彼らが「家を建てる者」である――によって文字通り退けられ、十字架につけられて殺された。ところが、イエス・キリストは、3日目に死を打ち破って復活し、罪の赦しと永遠の命に至る道を開いて下さった。こうして、捨てられた石であるイエス・キリストは、救いの家の「隅の親石」となって下さった。

 人間の目には、とても役に立ちそうもないように見えた石が、家を支える土台石となる…。或る意味で、イエス・キリストは、今も多くの人々にとって、何の役にも立たない古びた石のように退けられている。しかし、本当は、そのイエス・キリストこそが、最も大切な、人生を支える土台、命を支える「隅の親石」となる方である。

 そして、このイエス・キリストを人生の土台石として迎え入れ、その上に自分の人生を築いていく時、私達も、この詩人と共にこう告白することが出来る。

「主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。人間がわたしに何をなしえよう」(6節)。

祈り
 愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの憐れみと赦しの中に置き、御前に引き出し、祈りを献げさせて下さることを心から感謝致します。

 主よ、あなたの御子イエス・キリストは人から捨てられました。いいえ、私も御子を否定し、自分勝手な道を歩いていました。

 しかし、主よ、御子イエス・キリストはこのような私を見捨てず、逆にこの存在を支える「隅の親石」、心の暗闇を照らす光となって下さいました。

 あなたに直接繋がる者として下さったのは御子イエス・キリストです。御子が握って下さったからです。

 主よ、あなたとの関係を喜びながら、今日一日大切に生きることが出来ますよう、導いて下さい。

 あなたの子供お一人お一人を今日も支え、お一人お一人にあなたの声を掛け、直接お導き下さいますよう、お願い致します。

 感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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聖書日課 詩編117編

聖書日課 詩編117編(新共同訳 旧約p.957)

「えっ? これでおしまい?」と思わず言ってしまいそうなほど短い詩、それが第117編である。勿論、詩編の中で最も短い詩であるが、或る注解者は、この第117編について「ここに人生の結論がある」と言っている。

「主を賛美するために民は創造された」と言われているように(詩編102編19節)、主を賛美することは私達の生きる目的であり、私達の人生は、そのためにこそある。つまり、私達は、主の栄光を現すために存在している。

 では、その賛美の理由はどこにあるのだろうか。この詩の作者はこう述べている。

「主の慈しみとまことはとこしえに/わたしたちを超えて力強い。ハレルヤ」(2節)。

「主の慈しみとまことはとこしえに」続く。気分や状況でコロコロ変化してしまうものではなく、決して変わることがなく、決して無くなることもない。だからいつでも安心して信頼出来る。

 また、「主の慈しみとまこと」は、「わたしたちを超えて力強い」ものである。それは、私達の考えや思いのレベルに閉じ込められてしまうようなものではなく、常に「わたしたちを超えて力強い」

 そのような「主の慈しみとまこと」を日々体験しつつ歩む人生、それが信仰の人生である。そうであるとすれば、キリスト者は皆、主を賛美しないでいられるだろうか。「主をほめたたえ」ずにいられるだろうか。

「すべての国よ、主を賛美せよ。すべての民よ、主をほめたたえよ」(1節)。

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聖書日課 詩編116編

聖書日課 詩編116編(新共同訳 旧約pp.956-957)

 第116編は、主なる神への愛と信頼を表明する美しい神賛美の詩である。

「わたしは主を愛する。主は嘆き祈る声を聞き/わたしに耳を傾けてくださる。生涯、わたしは主を呼ぼう。死の綱がわたしにからみつき/陰府の脅威にさらされ/苦しみと嘆きを前にして/主の御名をわたしは呼ぶ。『どうか主よ、わたしの魂をお救いください。』主は憐れみ深く、正義を行われる。わたしたちの神は情け深い。哀れな人を守ってくださる主は/弱り果てたわたしを救ってくださる。わたしの魂よ、再び安らうがよい/主はお前に報いてくださる」(1~7節)。

「わたしは主を愛する」(1節)。
「生涯、わたしは主を呼ぼう」(2節)。
「命あるものの地にある限り、わたしは主の御前に歩み続けよう」(9節)。
「わたしは主を信じる。『激しい苦しみに襲われている』と言うときも、不安が募り、人は必ず欺く、と思うときも」(10~11節)。
「主の御名を呼び、満願の献げ物をささげよう」(13~14節、17~18節)。
「あなたに感謝のいけにえをささげよう」(17節)。

 この詩人が、これほど主を愛し、主を信頼するのはどうしてだろう? それは、主なる神がこの詩人の祈りに耳を傾け、「苦しいと嘆き」から彼を「助け出してくださった」からである。

「死の綱がわたしにからみつき/陰府の脅威にさらされ/苦しみと嘆きを前にして、主の御名をわたしは呼ぶ。『どうか主よ、わたしの魂をお救いください』」(3~4節)。
「主は/弱り果てたわたしを救ってくださる」(6節)。
「あなたはわたしの魂を死から/わたしの目を涙から/わたしの足を突き落とそうとする者から/助け出してくださった」(8節)。
「主はわたしに報いてくださった。わたしはどのように答えようか」(12節)。

 弱さと苦しみの中で、主を信頼し、主の御名を呼び求める信仰者。その小さき者の嘆きや祈りに耳を傾け、弱い者を死の淵から救い出し、信じる者に報いられる主なる神。ここには、主を愛し信頼する信仰者と憐れみ深い主なる神との間の、強く、深く、美しい信頼の絆が描かれている。

「あなたに感謝のいけにえをささげよう/主の御名を呼び/主に満願の献げ物をささげよう/主の民すべての見守る前で/主の家の庭で、エルサレムのただ中で。ハレルヤ」(17~19節)。

祈り
 愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの大きな愛と慈しみの中に置いて、御前に引き出して下さったことを心から感謝致します。
 主よ、弁えのない愚かな私をお守り下さい。どうしたら良いか分からないことが多いです。そのような時、ただあなたに頼り、あなたの声に耳を傾けることしか出来ない者を憐れんで下さい。

 主よ、どうか教えて下さい。示して下さい。安全で平和な道を。あなたの平安の中に憩うことが出来ますように。

 今日もあなたの子供のお一人お一人を、あなたが支え、守って下さい。どうか愚かさに陥ることなく、あなたを見上げて生きることが出来るよう、平安の中に生活出来るよう、お導き下さい。

 感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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聖書日課 詩編115編

聖書日課 詩編115編(新共同訳 旧約pp.955-956)

 主なる神は目に見えない。形に表すことが出来ないからである。というよりも、形に限定することは不可能である。

 それに対し、「偶像」は、目で見て、手で触れることが出来、実にきらびやかで分かり易いのが特徴である。それ故、真の神を知らない人は、神の民に向かって、嘲笑の思いを込めてしばしばこう問いかけた。「彼らの神はどこにいる」と。

「わたしたちではなく、主よ/わたしたちではなく/あなたの御名こそ、栄え輝きますように/あなたの慈しみとまことによって。なぜ国々は言うのか/『彼らの神はどこにいる』と。わたしたちの神は天にいまし/御旨のままにすべてを行われる。国々の偶像は金銀にすぎず/人間の手が造ったもの。口があっても話せず/目があっても見えない。耳があっても聞こえず/鼻があってもかぐことができない。手があってもつかめず/足があっても歩けず/喉があっても声を出せない。偶像を造り、それに依り頼む者は/皆、偶像と同じようになる」(1~8節)。

「神がいるなら見せてくれ!」という声は、昔も今も変わることなく聞こえてくる。しかし、主なる神は、見れば解かるという方ではなく、信じてこそ理解出来る御方である。主なる神は、偶像のように、「人間の手」によって造られ、人間の理想と想像から生まれた産物ではなく、天地の造り主として「天にいまし/御旨のままにすべてを行われる」方であり、人間の理解を遥かに超えた御方である。

 偶像には命がない。それ故、「偶像を造り、それに依り頼む者は/皆、偶像と同じように」自分を命のない死んだ者としてしまう。しかし、主なる神は命ある神である。信じる者を「祝福し」、彼らと共にいて「御旨」を行い、人々を導き、守り、生かして下さる。信仰とは、このような主なる神の命に生かされることである。

イスラエルよ、主に依り頼め。主は助け、主は盾。アロンの家よ、主に依り頼め。主は助け、主は盾。主を畏れる人よ、主に依り頼め。主は助け、主は盾」(9~11節)。

祈り
 愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの大きな愛と憐れみの中に生かし、御前に引き出して下さったことを心から感謝致します。

 主よ、あなたは生ける真の神です。人はあなたを知らず、自ら動くことも語ることも出来ない偶像に膝を屈め、手を合わせます。

 主よ、あなたが造られた人の尊厳を穢し、理性を卑しめる偶像礼拝をこの地から除き去って下さい。そのために、この小さな者をお用い下さい。

 あなたに信頼する者は幸いです。あなたが私達の「盾」、私達の「助け」だからです。

 今日もあなたの子供のお一人お一人が、偶像礼拝の罠から救われ、あなた以外のものに膝を屈めない尊厳ある存在として生涯を全うすることが出来るよう、助け導いて下さい。

 感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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聖書日課 詩編107編

聖書日課 詩編107編(新共同訳 旧約pp.947-949)

 主なる神が私達を救い、癒して下さるということは、観念的なことではない。また私達の思い込みでも、気休めでもない。現実的に行われるものである。

「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと/主は彼らの苦しみに救いを与えられた。闇と死の陰から彼らを導き出し/束縛するものを断ってくださった。主に感謝せよ。主は慈しみ深く/人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。主は青銅の扉を破り/鉄のかんぬきを砕いてくださった。彼らは、無知であり、背きと罪の道のために/屈従する身になった。どの食べ物も彼らの喉には忌むべきもので/彼らは死の門に近づいた。苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと/主は彼らの苦しみに救いを与えられた。主は御言葉を遣わして彼らを癒し/破滅から彼らを救い出された」(13~20節)。

 イスラエルは、バビロン捕囚という、誰がどう考えても決して救われようがない現実から救い出され、エルサレムに帰ることが出来た。「青銅の扉を破り/鉄のかんぬきを砕いてくださった」というのは、現実の救いであった。

 この救いを与えられた主なる神が私達の主である。この方は、現実の世界で私達を救う方、私達を癒す方である。

 私は、自分の思いを貫くために主なる神を否定して生きようとしたことがあった。私は倒れ、絶望の中に陥った。罪は人を滅ぼす現実の力である。

 しかし、罪よりも強い力があった。それは主なる神の恵みと愛の力である。主なる神は私を縛りつけていた罪の鎖を打ち砕き、私を癒し、希望と光に満たして下さった。主の救いは現実的に私を癒し、生かした。

 主の救いは現実の世界に働く力である。一人でも多くの方がこの主の力、救いの恵みを現実的に経験し、生かされていきますように。

祈り
 愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの圧倒的な恵みと慈しみに包まれ、御前に祈りを献げられることを感謝致します。

 主よ、あなたはこの世界を捨て置かれず、これを愛し、この中にあなたの恵みの業を満たされます。そして、この世に生きる私達を救って下さるのは、あなたご自身です。

 主よ、私達は罪を犯しました。自分が良いと思うことを自分勝手に決め、あなたの御心を求めもせず、自分の思いが満たされることを第一にしてきました。しかし、それによって私達は、罪に縛られ、滅ぶべきものとなってしまいました。

 主よ、あなたはそのような私達を投げ捨てず、見捨てず、背負って下さいました。罪よりも更に大きな、絶大な十字架の恵みによって、私達を縛る罪を打ち砕き、滅びの枷を打ち砕いて下さいました。私達はあなたの御言葉によって癒されます。

 主よ、あなたをほめたたえます。

 この現実の世界で働かれるあなたが、お一人お一人と共に歩み、救い、癒して下さいますよう、心からお願い致します。お一人お一人があなたの現実の力を経験することが出来ますように。

 感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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聖書日課 詩編106編

聖書日課 詩編106編(新共同訳 旧約pp.945-947)

 第105編と同様に、第106編も、神の民イスラエルの歴史を振り返りつつ、神の民が主なる神との関わりの中でどのように歩んできたかが語られている。特に第106編では、民の「罪」が記されており、主なる神が「罪」に陥った民をどのように取り扱われたかが述べられている。

「わたしたちは先祖と同じく罪を犯し/不正を行い、主に逆らった。わたしたちの先祖は、エジプトで/驚くべき御業に目覚めず/豊かな慈しみに心を留めず/海辺で、葦の海のほとりで反抗した。主は、御名のために彼らを救い/力強い御業を示された。葦の海は主に叱咤されて干上がり/彼らは荒れ野を行くように深い淵を通った。主は憎む者の手から彼らを救い/敵の手から贖われた」(6~10節)。

 振り返れば、神の民イスラエルの歴史は、最初から不信仰と不平不満の連続であった。「エジプト」であれほど「驚くべき御業」を体験していながら、「葦の海のほとり」で早くも主なる神に「反抗し」「荒れ野」に行けば、水がないと文句を言い、肉が食べたいと呟いた。

 しかし、その度に、主なる神は彼らの求めに応えられた。岩から水を出し、うずらの大群を送って肉を与え、40年もの間毎日マナを降らせて彼らを養い続けられた。ところが、

「彼らはたちまち御業を忘れ去り/神の計らいを待たず/荒れ野で欲望を燃やし/砂漠で神を試みた」(13~14節)。

「彼らは自分たちの行いによって汚れ/自分たちの業によって淫行に落ちた」(39節)。

 何と愚かなことだろう。しかも、主なる神はそのような彼らを何度も助け出そうとされたが、彼らはそれでも反抗を繰り返し、自分達の思うままに振る舞って罪を犯し続けた。そのため、遂に「主の怒り」「民に向かって燃え上がり」(40節)、荒れ野で彼らを打ち、「彼らを諸国の民の手に渡された」(41節)。しかし、

「主はなお、災いにある彼らを顧み/その叫びを聞き/彼らに対する契約を思い起こし/豊かな慈しみに従って思いなおし/彼らをとりこにしたすべての者が/彼らを憐れむように計らわれた」(44~46節)。

 実に、神の民とは、主なる神の憐れみと忍耐、「慈しみ」と愛によって導き、助け、守られている民である。そしてそれは今、救い主イエス・キリストを信じる私達自身でもある。

「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。あなたがたは、『かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている』のです」(ペトロの手紙一2章9~10節)。

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聖書日課 詩編104編

聖書日課 詩編104編(新共同訳 旧約pp.941-942)

 私達は食べることによって生きている。毎日食べることなしに生きることは出来ない。

 しかし、今日私達のもとに食べ物があるということは奇跡である。毎日「太陽」が昇ること、季節に従って雨が降り、適度な気温が保たれていること、田や畑を耕す人、「家畜」を育てる人がいること、流通に関わる人がいること、そして、その中に平和と調和が保たれていること、そのどこに支障があっても、私達の食卓に食べ物がやって来ることはない。

「主は天上の宮から山々に水を注ぎ/御業の実りをもって地を満たされる。家畜のためには牧草を茂らせ/地から糧を引き出そうと働く人間のために/さまざまな草木を生えさせられる」(13~14節)。

 私達は毎日当たり前のように食べている。しかし、そこには、主なる神が毎日行っておられる創造の業、私達のために作って下さっている平和がある。

 飢えで苦しむ方々のことを思う。私達は彼らを無視してはならない。彼らのところに平和と食物が届けられるよう、私達に出来ることを行えますように。

 また、イエス・キリストは次のように言われている。

「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」(ヨハネによる福音書6章51節)。

 肉を生かす「パン」があるように、霊を「永遠に生」かす「パン」がある。それがイエス・キリストだというのである。私達の肉の命のために食物を備えて下さる主なる神は、私達の霊をも慈しみ、これを「永遠に生」かすためにイエス・キリストを遣わして下さった。

 未だイエス・キリストを知らず、霊の飢餓に苦しんでいる人々がいる。イエス・キリストはそのお一人お一人にこの「生きたパン」を届けようとしておられる。私も、そのためになすべきことをすることが出来ますように。

祈り
 愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの大きな愛と慈しみに包まれ、赦されて御前にあることを心から感謝致します。

 主よ、あなたは、「太陽」を昇らせ、雨を降らせ、風を吹かせて私達のために食物を作って下さいます。生産や流通に関わる人々を祝福し、そこに平和と調和を与えられます。このようにして、私達は毎日食べることが出来ます。今日、私達の目の前にある食物は、あなたが与えて下さっている奇跡です。

 また、あなたは私達の肉の体を気にかけて下さるだけでなく、霊をも慈しんで下さり、この飢え渇いた霊に、「命のパン」であるイエス・キリストを与えて下さいました。イエス・キリストの十字架の愛によって、私達は命をいただき、あなたと共に「永遠に生きる」者としていただきました。あなたの大きな愛に心から感謝を献げます。

 主よ、肉の食物、そして霊の食物に事欠き、苦しんでいる人々がいます。あなたが願っておられるのは、そのどちらをも満たすことではないでしょうか。あなたが与えよう、注ごうとしている絶大な恵みを阻むものがあります。

 主よ、どうかそれらを打ち砕き、お一人お一人に必要な肉の食物、霊の食物をお与え下さい。そして、私達一人一人が、そのためになすべきことを行うことが出来ますよう、力づけて下さい。

 感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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聖書日課 詩編103編

聖書日課 詩編103編(新共同訳 旧約pp.939-941)

「冠」と聞いて、思い浮かべるのは、王がかぶる〈王冠〉だろう。金やプラチナで作られ、宝石が組み込まれている。国家の威信をかけて、最高の材料と最高の技術をもって作り上げるのが王冠である。

 そこに現されるのは人の栄光である。人は自分が作ったもので自分の栄光を表そうとする。

「【ダビデの詩。】わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって/聖なる御名をたたえよ。わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。主はお前の罪をことごとく赦し/病をすべて癒し/命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け/長らえる限り良いものに満ち足らせ/鷲のような若さを新たにしてくださる」(1~5節)。

 しかし、ダビデは謳っている。主なる神の「慈しみと憐れみ」が私達の「冠」であると。ダビデ自身も王冠を戴いた者である。しかし、金の王冠よりも、更に優れた冠こそ、主の「慈しみと憐れみ」であると彼は告白している。

 私達を輝かせ、私達に尊厳を与えるもの、それは、私達が自分の力で手に入れたこの世の力、富や地位ではない。主の「慈しみと憐れみ」である。

 主の「慈しみと憐れみ」は全ての人に注がれる。全ての人をご自分の王子、王女として、この世の誰も作り得ない、栄光の「冠」をかぶらせて下さる。主の「慈しみと憐れみ」が、私達を主の王子、王女とするからである。

 今、人生の痛みと苦しみの中で、主の王子、王女と聞いてもピンとこないと感じる方も多いと思う。

 しかし、主は、ご自分の子供達を忘れていない。「慈しみと憐れみの冠を授け」ると仰る方は、その約束を必ず果たされる。

 あなたも、そして私も、主の栄光を映す時がやって来る。絶望してはならない。

祈り
 天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの溢れる恵みと慈しみの中に私達を置いて、御前に引き出して下さったことを心から感謝致します。

 主よ、今日、私達を輝かせる私達の「冠」は、私達の業や功績ではなく、あなたの「慈しみと憐れみ」だと聞きました。このような者をも慈しみ、憐れんで下さるあなたの「慈しみと憐れみ」が私達を輝かせて下さると。

 自分を人に良く見せようとしてきたこの心をお赦し下さい。ただこの身を低くして、あなたの「慈しみと憐れみ」だけを求める者となることが出来ますように。十字架の死まで低められたあなたの近くにいることが出来ますように。

 人生の痛みの中で、自分の価値、あなたが与えて下さる栄光の「冠」が何か分からず、苦しんでいる方が沢山いらっしゃると思います。主よ、どうかお一人お一人に近くあって下さい。今日も、あなたの「慈しみと憐れみ」を溢れるように注いで下さい。あなたの王子、あなたの王女とされていることに、お一人お一人が気付くことが出来ますように。あなたの栄光をもってお一人お一人を覆って下さい。

 感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119
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