ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 オバデヤ書

聖書日課 オバデヤ書(新共同訳 旧約pp.1443-1444)

 オバデヤ書は旧約聖書の中で最も短い書物で、オバデヤの見た「幻」を記している。内容は、イスラエルの隣国エドム」の罪に対する裁きの宣告(1~18節)、およびイスラエルの回復の預言である(19~21節)。

 エドム人イスラエル人は、双子の「兄弟」「エサウヤコブの子孫で、隣国であり親族でもあった。しかし、イスラエル「不幸に見舞われ」た時、彼らは何の顧みも示さず、却ってこれを「喜ん」だ(12節)。本来ならば援助して然るべき味方である筈なのに、逆にイスラエルの敵となった(10~11節、13~14節)。

 それ故、オバデヤは彼らの「傲慢」の罪を指摘し、イスラエルの苦難の日における暴虐ぶりを摘発した。そして、エドムは「とこしえに滅ぼされる」と宣言した(10節)。一方、イスラエルに対しては、未来における回復と領土の拡大を預言した。そして、回復したイスラエルは、やがてエドムを支配するようになると宣言した(19節)。

 ここで注目すべきことは、エドムに臨む裁きとイスラエルに臨む裁きの違いである。主に反逆する者と主に従う者では、主の日の裁きの意味が違う。即ち、主に逆らう者への裁きは、永遠に主なる神から引き離され、二度と回復することのない徹底的な滅びをもたらす。それに対し、主に従う者への裁きは、愛する者を一時的に懲らしめることによってご自分に立ち帰らせ、二度と失われることのない永遠の祝福をもたらす。

「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう」(ローマの信徒への手紙11章22節)。

 悪者への厳しい審判とご自身の民への慰めに満ちた回復は、同じ主から来る。主なる神は、義であられるので罪と悪を永遠に見過ごされることはない。また、愛であられるので、選びの民を永遠に捨て置かれることはない。主なる神は、主に信頼する者を決して見捨てることはない。それ故、私達も、主なる神の愛と恵みから決して迷い出ることのないように、主を恐れ敬い、御教えに聞き従って歩み続けたいものである。

祈り
 愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの赦しの中に置き、御前に引き寄せて下さったことを感謝致します。

 主よ、苦しみの中にある人を見ても、見て見ぬふりをする思いが私達日本人の心の中に蔓延しています。どうかお赦し下さい。

 私自身が罪に倒れ、絶望の中にいた時、あなたご自身がやって来て救って下さったこと、あなたの僕を遣わして下さったことを、忘れない者として下さい。

 そして、私達もあなたの御心をこの世にもたらす働きに関わることが出来ますように。

 感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

西原新生バプテスト教会
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聖書日課 アモス書9章

聖書日課 アモス書9章(新共同訳 旧約pp.1440-1442)

 アモスは、イスラエルに主なる神の裁きが下ることを語り続けた預言者だった。本書の最終章である9章にも、アモスの見た第五の幻(1~4節)が記されている。その内容は、主なる神がイスラエルの神殿を徹底的に打ち砕き、「罪ある者」「剣で殺す」という厳しいものであった。

 宗教の儀式は華々しく行われていても、社会には不正が蔓延り、貧しい人々が虐げられ、弱い者が顧みられない。人々は主なる神への信仰を捨て、偽りの偶像を取り入れ、自分勝手なやり方で自分の思うままに歩んでいる。その根底には、自分達は主なる神の選民であるという特権意識と、物質的な繁栄による信仰と倫理の緩みが横たわっていた。そのような高慢と堕落の罪に対して、主なる神は遂に厳しい裁きの手を下されようとしていた。

 しかし、主なる神は、単にイスラエルを滅ぼし尽くそうとしていたのではない。主なる神は、「わが民の中で罪ある者は皆、剣で死ぬ」と言われたが(10節)、同時に「わたしはヤコブの家を全滅させはしない」とも約束して下さった(8節)。主なる神は、かつてダビデにされた約束に、どこまでも誠実であられる方である。それ故、主なる神の厳しい裁きを預言し続けたアモスは、最後に主なる神によるイスラエルの回復と繁栄の言葉をもって本書を閉じている。

「その日には/わたしはダビデの倒れた仮庵を復興し/その破れを修復し、廃虚を復興して/昔の日のように建て直す。こうして、エドムの生き残りの者と/わが名をもって呼ばれるすべての国を/彼らに所有させよう、と主は言われる。主はこのことを行われる。見よ、その日が来れば、と主は言われる。耕す者は、刈り入れる者に続き/ぶどうを踏む者は、種蒔く者に続く。山々はぶどうの汁を滴らせ/すべての丘は溶けて流れる。わたしは、わが民イスラエルの繁栄を回復する。彼らは荒された町を建て直して住み/ぶどう畑を作って、ぶどう酒を飲み/園を造って、実りを食べる。わたしは彼らをその土地に植え付ける。わたしが与えた地から/再び彼らが引き抜かれることは決してないと/あなたの神なる主は言われる」(11~15節)。

 この希望の言葉を、今私達もしっかり心に留めたいと思う。

祈り
 愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの大きな愛の御手の中に置いて、御前に引き出して下さったことを心から感謝致します。

 主よ、あなたはこのような私を、あなたの大きな救いのご計画の中に置いて下さいました。あなたの絶大な恵みによってあなたの子、キリスト者としていただきました。

 全ての罪を覆い尽くす御子イエス・キリストの十字架の血の恵みをほめたたえます。

 主よ、まだあなたに出会っていないあなたの子と出会わせて下さい。あなたが御子によってあなたの子にしようとお定めになっている方、まだそれが人の目には明らかになっていない方に出会わせて下さい。そのお一人お一人にあなたの御言葉をお伝えすることが出来ますように。共にあなたの御名をほめたたえ、あなたの救いの御業を喜び楽しむことが出来ますように。

 感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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聖書日課 アモス書8章

聖書日課 アモス書8章(新共同訳 旧約pp.1439-1440)

 第四の幻は「夏の果物」の幻である(1~3節)。この「一籠の夏の果物(カイツ)」はよく熟していた。それはイスラエルの罪が熟して、彼らの最後が近づいていることを示していた。

 主なる神は、はっきりと「わが民イスラエルに最後(ケーツ)が来た。もはや、見過ごしにすることはできない」と語られた(2節)。ところが、イスラエルの民は、そのような主なる神の御声など全く聞こうともせず、不正な商売に明け暮れ、「貧しい者を踏みつけ/苦しむ農民を押さえつけ」ていた(4節)。

「お前たちは言う。『新月祭はいつ終わるのか、穀物を売りたいものだ。安息日はいつ終わるのか、麦を売り尽くしたいものだ。エファ升は小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使ってごまかそう。弱い者を金で、貧しい者を靴一足の値で買い取ろう。また、くず麦を売ろう』」(5~6節)。

 このように、イスラエルの民の関心と言えば、儲けることばかりであった。彼らは、目に見える地上のことで頭も心も一杯で、主なる神も主なる神の教えも二の次、三の次だった。そして、遂にそのような彼らの前に終わりの日が近づいていた。

「その日が来ると、と主なる神は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ/白昼に大地を闇とする」(9節)。

「その日」「苦悩に満ちた日」となり(10節)、「大地に飢え」が送られる(11節)。しかし、彼らの苦悩と飢えは、単にパンや水に飢え渇く苦しみではない。「主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇き」であった(11節)。つまり、それは霊の飢え渇き、魂の苦悩の時である。人々が、目に見える地上のことだけに明け暮れ、主なる神の御声と主なる神の御心を無視し続ける時、最後には主の言葉そのものが取り去られてしまう。真の暗闇、真の苦悩はそこにある。

 それから2千数百年の時を超えて、アモスが語った主の言葉は今、私達に鋭く迫って来る。私達の問題の根源は、「主の言葉を聞くことの出来ない飢えと渇き」にあるのではないか。

祈り
 愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの大きな愛の御手の中に包み、御前に引き出して下さったことを心から感謝致します。

 主よ、あなたは「その日が来る」と仰いました。あなたの言葉を求めても聞くことが出来なくなる日が来ると。

 どうか、あなたの言葉を伝える働きのためにあなたが召された働き人を力づけて下さい。あなたの言葉を求めても聞くことが出来ず、渇き呻いている方にあなたの言葉を届けさせて下さい。

 最後の一人を見つけ出すまで、歩き回り、捜し続けておられるあなたの御思いを、この私の中に満たして下さい。

 感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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聖書日課 アモス書7章

聖書日課 アモス書7章(新共同訳 旧約pp.1437-1439)

 アモス書の最後の3つの章(7~9章)には、アモスが見た5つの幻が記されている。そのうち、7章には最初の3つの幻が書かれている。第一の幻と第二の幻においては、預言者の執り成しによって、主なる神は審判を思い止まられた。しかし、第三の幻では、主なる神は「もはや、見過ごしにすることはできない。……わたしは剣をもって/ヤロブアムに立ち向かう」とはっきり言われた(8~9節)。すると、このアモスの預言を聞いた「ベテルの祭司アマツヤが、イスラエルの王ヤロブアム」に次のように訴えた。

イスラエルの家の真ん中で、アモスがあなたに背きました。この国は彼のすべての言葉に耐えられません。アモスはこう言っています。『ヤロブアムは剣で殺される。イスラエルは、必ず捕らえられて/その土地から連れ去られる』」(10~11節)。

 当時北イスラエル王国では、南ユダ王国に対抗して自国の利益のために造られた宗教が盛んだった。「祭司アマツヤは、自国を脅かすようなアモスの預言に腹を立てたのである。そして、今度はアモス自身に向かってこう言った。

「アマツヤアモスに言った。『先見者よ、行け。ユダの国へ逃れ、そこで糧を得よ。そこで預言するがよい。だが、ベテルでは二度と預言するな。ここは王の聖所、王国の神殿だから」(12~13節)。

 昔から、主なる神の言葉を語る預言者は、迫害を受け、追いやられることが多くあった。テコアの牧者であったアモスも例外ではなかった。しかし、この時アモスは、アマツヤの圧力に少しも狼狽えることなく、「今、主の言葉を聞け」と、主から預かった言葉を堂々と語った(15~17節)。ここに預言者の信仰と勇気がある。

 主の言葉を語り続けるためには、常に信仰と勇気が必要である。しかし、それはアモスには恐れも不安も全くなかったということではない。寧ろ、恐れや不安の中で、絶えず主の御前に謙り、主の御言葉を求め続けたからこそ、主は御言葉によって彼を支え、力づけ、用いられた。大切なことは、謙ること、そして御言葉を求め続けることである。

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【BOOK】ビューリタニズムの倫理思想

大木 英夫『ピューリタニズムの倫理思想――近代化とプロテスタント倫理との関係』東京: 新教出版社, 1966年, p.255

ピューリタンが家庭を重んじたことは、ピューリタンの宗教的個人主義と強い緊張を保っている。バンヤンの『天路歴程』の第一部は、宗教的求道が家庭的なものと対立した形で示されている。しかしそれはただちに家庭の否定を意味しない。『天路歴程』には第二部があり、そこでは家族全体が、夫クリスチャンのあとを辿る妻クリスチアナの指導のもとに求道の道をすすむ。この妻は夫の家庭を治める責任の典型的な代行者であった。ピューリタンの改革運動は、個人的な生の改革から、社会の基礎単位としての家庭の改革に進展した。これは前に引用したテイラーが見るように、遂には国家全体の改革に向かうのである。それは家庭の契約化から国家の契約化、つまり契約社会化の進行であったのである」

聖書日課 アモス書6章

聖書日課 アモス書6章(新共同訳 旧約pp.1436-1437)

 新共同訳における本章の見出しは「驕れる人々への審判」である。前章までの内容に続いて、ここでもイスラエルの罪に対する主の裁きの預言が語られている。

 その中で、2節の「カルネ」は、北アラムの首都で、紀元前738年にアッシリアによって征服された。「ハマト・ラバ」も同様に、紀元前720年に陥落した。そして、ペリシテ人のガト」も、紀元前711年にアッシリア軍によって陥落した。

 こうして、強国アッシリアによって滅ぼされた町々を示した後、アモスイスラエルの人々に向かって問うた。「お前たちはこれらの王国にまさっているか」と(2節)。

 この問いかけは、滅びが目の前に迫っていながら、「自分達は特別な神の民だから大丈夫! 滅びる筈はない」と考えて、「酒宴」に興じ続け、安逸を貪っていたイスラエルの人々に対して語られた言葉である(4~7節)。

 当時イスラエルは、ヤロブアム2世の時代にもたらされた繁栄の余韻の中にあった。そのため、彼らは、主なる神の選民であるという特権意識に安んじて、神の民とされた目的を全く忘れてしまっていた。その目的とは、彼らが世界の光となって、全世界に主なる神の救いをもたらすことである。彼らはこのことを忘れ、自分を楽しませることばかり考えて生きていた。

 これは現在の神の民であるキリスト者も陥り易い問題ではないだろうか。主なる神によって救われた、癒された、赦されたという恵みと祝福を喜び楽しむのは素晴らしいことである。しかし、その一方で、自分達に期待されている役目を果たすことにはとても消極的であるということはないだろうか。そもそも私達は、救われた者としての目的を、どれほど深く理解し、どれほど真剣に追及しているだろうか。

 私達が素晴らしいから選ばれたのではない。私達を通して、御業を成し遂げ、御栄光を現すために、主なる神は私達を選び、救われた。この目的を忘れる時、私達にも、いにしえのイスラエルと同じ結果が待っていることを決して忘れてはならない。

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聖書日課 アモス書5章

聖書日課 アモス書5章(新共同訳 旧約pp.1434-1436)

 アモス書の預言は、イスラエルの罪に対する主なる神の厳しい裁きの宣告に満ちている。その一方で、主なる神はイスラエル「わたしを求めよ、そして生きよ」と呼びかけている(4節)。

 主なる神を「求め」るとはどういうことだろうか。私達が「生き」るとはどういうことだろうか。それは単に命を長らえることではない。私達を造られた主なる神との交わりの中にいること、主なる神を信頼し、愛し、その御声に聞き従って歩むこと、それが真に「生き」るということである。

 それ故、どんなに物が豊かでも、どんなに体が健康でも、主なる神との交わりを失っているならば、私達は真の命を生きていることにならない。そこには、真の平安も喜びも希望もなく、最後は必ず不安と混乱と絶望で終わる。

 アモスが生きた時代のイスラエルは、まさにそういう状況であった。経済的にも政治的にも繁栄していた彼らは、傲慢になって主なる神を軽んじ、偶像を拝み、正義を捻じ曲げ、弱者を虐げて、自分達の思うままに歩んでいた。

 それ故、主なる神はイスラエルに向かって呼びかけられた。

「主を求めよ、そして生きよ。さもないと主は火のように/ヨセフの家に襲いかかり/火が燃え盛っても/ベテルのためにその火を消す者はない」(6節)。

 裁きの日が刻一刻と近づいていた。だからこそ、主なる神はますます強く、イスラエルに呼びかけられた。

「善を求めよ、悪を求めるな/お前たちが生きることができるために。そうすれば、お前たちが言うように/万軍の神なる主は/お前たちと共にいてくださるだろう。悪を憎み、善を愛せよ/また、町の門で正義を貫け。あるいは、万軍の神なる主が/ヨセフの残りの者を/憐れんでくださることもあろう」(14~15節)。

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聖書日課 アモス書4章

聖書日課 アモス書4章(新共同訳 旧約pp.1432-1434)

 4章には、主なる神に逆らって罪を犯し続けるイスラエルに対して下された5つの懲罰が記されている。

 第一の懲罰は飢饉と「欠乏」(6節)、第二の懲罰は干ばつ(7~8節)、第三の懲罰は「黒穂病と赤さび病「いなご」による作物の被害(9節)、第四の懲罰は「疫病」と戦争(10節)、そして第五の懲罰は「ソドムとゴモラに下されたような大災害である(11節)。注目すべきは、それぞれの懲罰の後に繰り返し記されている次の言葉である。

「しかし、お前たちはわたしに帰らなかったと/主は言われる」(6節、8節、9節、10節、11節)。

 何という頑なさ! 何という愚かさだろう! これほどの懲罰を受けながら、イスラエルは最後の最後まで、悔い改めて主なる神に立ち帰ろうとしなかった。その頑固さには、本当に驚かされる。

 しかし、考えてみれば、これは私達自身の姿でもあるのではないか。私達も何度も何度も同じ過ちを繰り返す者である。イスラエルの姿は、全ての罪ある人間の姿でもある。

 しかし、そのようなイスラエルに向かって、主なる神はこう呼びかけられた。

「それゆえ、イスラエルよ/わたしはお前にこのようにする。わたしがこのことを行うゆえに/イスラエルよ/お前は自分の神と出会う備えをせよ」(12節)。

 これは、主なる神の審判の警告であると共に、悔い改めて主なる神に立ち帰るようにとの呼びかけの言葉である。主なる神は、愚かで頑ななイスラエルを、決して見捨てず、諦めず、呼びかけ、警告し、救い出そうとされた。

 主なる神を信じるとは、このような警告と呼びかけの言葉を聞き、日々主の御前にひれ伏し、悔い改めて主なる神に出会う備えをすることである。主なる神は、裁きではなく赦しの中で、呪いではなく祝福の中で、滅びではなく救いの中で、私達と出会うことを切に求めておられる。

祈り
 愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの愛の御手の中に置いて下さることを感謝致します。

 主よ、この社会、この時代には、悪意と欺瞞が満ち溢れています。人が人を傷つけ、死に追いやっても言い訳をし、自分を義とすることが当たり前のこの世。あなたの御子イエス・キリストは、このような人の世のために十字架にかかり、命を捨てられました。御子は叫ばれました。「父よ、彼らをお赦しください」と。

 主よ、私もかつて人を傷つける道を歩いていた者でした。そのような私をあなたは憐れみ、十字架の血を注いで赦して下さいました。あなたは、私を引き寄せ、あなたの十字架の血に身を避ける者として下さいました。

 今、全ての人が、あなたの十字架の血以外に、罪が赦される道はないということを知ることが出来ますように。罪を悔い改め、あなたに立ち帰り、罪を赦していただくことが出来ますように。愛をもって互いに助け合い、支え合う人間と変えられますように。

 そのためにあなたが私にさせようとしておられることを、忠実に行うことが出来ますよう、力づけ、導いて下さい。

 主よ、苦しめられ、絶望の中、死に追いやられた方を握って下さい。彼らにあなたの愛と癒しを注ぎ、永遠にあなたの傍に祝福して下さい。

 感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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聖書日課 アモス書3章

聖書日課 アモス書3章(新共同訳 旧約pp.1431-1432)

 主なる神の選びは、特別なものである。主なる神が「地上の全部族の中から」イスラエルを選ばれたのは、あの人々でも、この人々でも、誰でも良かったなどというものではない。勿論、たまたまとか、何となくといった気紛れでもない。主なる神はまさしくこのイスラエルを選ばれたのである(2節)。

 だからこそ、主なる神は、イスラエルがたとえ罪に陥り、裏切っても、それでも彼らを憐れみ続け、彼らを見捨てずにおられた。それが選びというものであり、主なる神はイスラエルへの誠実を決して忘れることはなかった。

 勿論、だからと言って、主なる神は「罪」をそのままにしておかれることはない。罪は必ず裁かれる。しかも、イスラエルの場合には、尚更厳しい裁きが下される。それは彼らが選ばれた者だからである(2節)。特別な立場には特別な責任が課せられるように、主なる神にとってイスラエルは特別な存在であるからこそ、罪に対してもより一層厳しく取り扱われる。

 イスラエルの罪は、主なる神の選びと祝福に胡坐をかき、選ばれた者としての責任を蔑ろにしたところにあった。しかし、これは決してイスラエルに限ったことではない。全ての富む者、全ての祝福された者には、それぞれ果たすべき責任が課せられている。だから、もしその人が富や祝福に胡坐をかいて責任を果たさないなら、その責任を問われる時が必ずやって来る。何故なら、全ての富と祝福は主なる神から与えられたものだからである。

 イエス・キリストを信じる者は皆、主なる神に選ばれた者である。私達は、主なる神の選びの中で、特別に愛され、守られ、祝福されている。私達は、このような選びに入れられていることの意味を、どれほど深く理解し、どれほど深く喜び感謝しているだろうか。また、それと共に、選ばれた者として果たすべき責任を、私達はどれほど深く自覚し、どれほど熱心に果たそうとしているだろうか。その自覚と熱心さを失ったままでいる時、教会もまた、厳しく裁かれる。

「しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。もし悔い改めなければ、わたしはあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう」(ヨハネの黙示録2章4~5節)。

祈り
 愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの大きな御手の中に包み、御前に引き出して下さったことを、心から感謝致します。

 主よ、ユダの獅子と呼ばれたあなたの咆哮が聞こえるようです。罪を滅ぼすために戦われたあなたの叫び声を、全ての人が聞くことが出来ますように。そのために、私の声、私の手、私の足、私の心を用いて下さい。

「誰も滅んではならない」と言われるあなたの激しく熱い愛に触れられ、罪の中にある者があなたに立ち帰ることが出来ますように。

 踏みにじられた者を、あなたの背中に背負い、運んで下さい。

 感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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聖書日課 アモス書2章

聖書日課 アモス書2章(新共同訳 旧約pp.1429-1430)

 1章に続いて本章でも、諸国民の罪に対する裁きが語られている。アモスは、主なる神の審判の象徴に「火」を用いているが(1章4節、7節、10節、12節、14節、2章2節、5節)、これは、主なる神の裁きが「火」のように全てを焼き尽くす破壊力があることを表している。

 そして、その裁きの矛先は、諸国民から神の民「ユダ」イスラエルに向けられている(4節、6節)。主なる神は諸国民の罪を裁かれるが、それと共に、いやそれ以上に、神の民の罪を裁かれる。

 しかし、その罪の内容を見ると、諸国民と神の民イスラエルの間には、はっきりとした違いがある。諸国民においては、彼らが行った他国民への残虐行為が糾弾されているが、ユダとイスラエルにおいては、彼らが「主の教えを拒み/その掟を守らず」「偽りの神によって/惑わされた」罪が最初に糾弾され(4節)、加えて、「弱い者」を踏みにじる罪が指摘されている(6~7節)。

 アモスの時代のイスラエルは、王国分裂後の第二の繁栄の時代を迎えていた。しかし、領土の拡大と交易の発展は、北王国に多くの富をもたらす一方で、社会的不均衡や不公平、不道徳や宗教的堕落という深刻な問題を生み出した。弱者と貧者は、富める者から社会的圧迫と蹂躙を受け、実に憐れな状態にあった。また、主なる神の「掟」を軽んじたことが、社会に秩序の乱れや道徳的腐敗を招き、人々の霊性は低下する一方であった。人々は、主なる神の名のもとに、カナン人のバアル宗教の祭儀を取り入れ、礼拝は形式化し、事実上の偶像礼拝に陥っていた。

 神の民は、主なる神を礼拝し、主なる神にのみ仕え、主なる神の「掟」を守ってこそ神の民である。その時初めて、主なる神の大いなる祝福が豊かに注がれる。たとえ主なる神に選ばれた者であっても、主なる神に聞き従うことがなければ、祝福を失う。

 その点で、イスラエルの人々は大きな間違いを犯した。彼らは主なる神の選びに胡坐をかき、自分達が果たすべき役割を果たそうとしなかった。主なる神の選びは素晴らしい恵みである。その恵みを豊かな祝福として保ち生かすために、私達は主なる神に信頼し、聞き従って、自分達に期待されている役目を果たしていくことを忘れてはならない。

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