ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年に伝道開始50年を迎えます。

聖書日課 レビ記11章

聖書日課 レビ記11章(新共同訳 旧約pp.177-179)

 レビ記11章には、清い動物と汚れた動物に関する規定が記されている。

 地上の生き物(1~8節)、水中の生き物(9~12節)、空中の生き物(13~19節)、昆虫(20~28節)、爬虫類(29~38節)など、それぞれの種類に応じて、「食べてよい」「清いもの」「食べてはならない」「汚れたもの」が規定されている。

 このような区別の根拠はどこにあるのか。昔から衛生面や見かけの醜さなどから説明がなされてきたが、明確なことは今でも分かっていない。また、新約聖書では、このような動物の区別は既に無くなっていると教えられている(使徒言行録10章9~16節)。

 しかし、このような規定がなされた目的ははっきりしている。

「わたしはあなたたちの神、主である。あなたたちは自分自身を聖別して、聖なる者となれ。わたしが聖なる者だからである。地上を這う爬虫類によって自分を汚してはならない。わたしはあなたたちの神になるために、エジプトの国からあなたたちを導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい。以上は動物、鳥類、魚類、および地上を這うすべての生き物についての指示であり、汚れたものと清いもの、食べてよい生き物と食べてはならない生き物とを区別するためである」(44~47節)。

 主なる神は、私達が汚れに染まらないこと、「聖なる者」として生きることを願っておられる。祭儀によって霊的・道徳的な穢れを清め、また、日常の食生活についても清い者として生きることを求めておられる。

 そのように言われると、とても窮屈に感じる人がいるかも知れない。しかし、決してそうではない。主なる神は、私達が聖なる愛と命の中で自由にのびのび生きることを願っておられる。それによって、私達が「神の栄光を現す」者となるために。

「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(コリントの信徒への手紙一10章31節)。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119
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聖書日課 レビ記10章

聖書日課 レビ記10章(新共同訳 旧約pp.175-177)

 恐ろしい事件が起こった。「アロンの子のナダブとアビフ」が、幕屋で「主の御前から」出た「火」によって焼死した。それは、彼らが主の「規定に反した炭火」「入れ、その上に香をたいて主の御前にささげた」ことへの裁きとして起こった出来事だった。

「アロンの子のナダブとアビフはそれぞれ香炉を取って炭火を入れ、その上に香をたいて主の御前にささげたが、それは、主の命じられたものではない、規定に反した炭火であった。すると、主の御前から火が出て二人を焼き、彼らは主の御前で死んだ」(1~2節)。

 これがいつ頃のことかは定かではない。祭司による祭儀が始まってすぐということであれば、彼らはまだ仕事に不慣れだったということも考えられる。しかし、9節に「ぶどう酒や強い酒を飲むな」という主の戒めがあることを考えると、〈不慣れ〉よりも、寧ろ〈慣れ〉が生じて、主への畏れを失っていたのではないかと思われる。

〈慣れ〉は、或る意味では必要なことである。しかし、それが却って問題を引き起こす可能性があることも忘れてはならない。私達の信仰生活を考えてみたい。私達は、讃美歌を覚え、祈り方を知り、聖書の内容もよく知るようになっているかも知れない。勿論、それは良いことである。しかし、そこに喜びや感謝、深い信頼、謙りの心が養われているだろうか。もしそうでないとしたら、私達はいつの間にか高慢不遜になってしまっている可能性がある。

 祭司が「なすべきことは、聖と俗、清いものと汚れたものを区別すること、またモーセを通して主が命じられたすべての掟をイスラエルの人々に教えること」である(10~11節)。ところが、教える者が反し、清くあるべき者が汚れ、聖別されて主なる神のものとされた者が俗世間に染まってしまった。そこにこの出来事の問題があったのではないか。〈慣れっこ〉になることの恐さはここにある。

 私達も自分自身の信仰のあり方を点検し、いつも新鮮な喜びと深い信頼と謙遜の心をもって歩み続ける者でありたい。

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聖書日課 レビ記9章

聖書日課 レビ記9章(新共同訳 旧約pp.174-175)

 遂に、幕屋での最初の祭儀が大祭司アロンによって開始された。イスラエルの民は、これまで、主によって選ばれた技術者を中心に、民全員が熱心にささげ、仕えながら、幕屋の完成を待ち望んでいたに違いない。

「アロンは手を上げて民を祝福した。彼が贖罪の献げ物、焼き尽くす献げ物、和解の献げ物をささげ終えて、壇を下りると、モーセとアロンは臨在の幕屋に入った。彼らが出て来て民を祝福すると、主の栄光が民全員に現れた。そのとき主の御前から炎が出て、祭壇の上の焼き尽くす献げ物と脂肪とをなめ尽くした。これを見た民全員は喜びの声をあげ、ひれ伏した」(22~24節)。

 モーセの指示によって(7節)、アロンは、まず自分自身の「贖罪の献げ物」「焼き尽くす献げ物」をささげた(8~12節)。人間の大祭司は、「自分の罪」の贖いのためにも献げ物をささげる必要があった。この点が、真の大祭司である主イエス・キリストとの決定的な違いである(ヘブライ人への手紙7章27節)。

 続いてアロンは、民のための「献げ物をささげた」(15節)。そして、この日から、贖罪の献げ物をはじめ、焼き尽くす献げ物、穀物の献げ物、和解の献げ物……と様々な献げ物が、昼も夜もささげ続けられることになった。

 主なる神の御住まいである幕屋は、いつも賑やかで、人々の訪問がひっきりなしに続いていたに違いない。そして、そこにはいつも、民を照らす祭壇の火が点されていた。

 現代の神殿であるキリスト者、その群れである教会に対しても、「ひたすら心を一つにして」「喜びと真心をもって」「神を賛美」すること、「救われる人々」「日々仲間に加え」られていくことを願っておられる(使徒言行録2章46~47節)。聖霊による活気に満ちたキリスト者と教会、主なる神はそのような人々の群れを求めておられる。

 その秘訣は、今日の御言葉に明確に示されている。主なる神の「祝福」を受け、「主の栄光」に溢れること、それがキリスト者と教会の活気と元気の源である。

 私達の礼拝が、主なる神の祝福とご栄光に満ち溢れた時であるように!

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聖書日課 レビ記8章

聖書日課 レビ記8章(新共同訳 旧約pp.172-174)

 8章では「アロンとその子ら」の祭司任職式について記されている。「任職式」は、モーセを通して主が命じられた」教えに従って、「七日にわた」って執り行われた。

「あなたたちは七日にわたる任職の期間が完了するまでは、臨在の幕屋の入り口を離れてはならない。任職式は七日を要するからである。今日執り行ったことは、あなたたちのために罪を贖う儀式を執行せよという主の御命令によるのである。あなたたちは臨在の幕屋の入り口にとどまり、七日の間、昼夜を徹して、主の託せられたことを守り、死ぬことのないようにしなさい。わたしはそのように命じられている。アロンとその子らは、モーセを通して主が命じられたことすべてを、そのとおり実施した」(33~36節)。

 任職式の内容は、次の通りである。

 まず、「アロンとその子ら」、およびイスラエル「共同体全員」「臨在の幕屋の入り口に集まった」(2~4節)。

 次に、モーセによって「アロンとその子ら」「水で清め」られた(6節)。彼らは祭司の装束を着る前に、まず体を清める必要があった。

 続いて、「幕屋とその中のすべてのもの」、そして大祭司に「聖別の油」が注がれ「清め」られた(10~13節)。「油注がれた祭司」(4章3節、5節など)とは、大祭司のことである。

 その後、任職のために「贖罪の献げ物」(14~17節)、「焼き尽くす献げ物」(18~21節)、「任職の献げ物」(22~29節)がささげられた。「任職の献げ物」では、「雄羊」「血」が祭司の「右の耳たぶ、右手の親指、右足の親指に塗」られ、血の残りが「祭壇の四つの側面に注ぎかけ」られた(22~24節)。

 水の洗い、油注ぎによる聖別、献げ物と血、キリスト者は皆これらを経験している。即ち、水によるバプテスマ聖霊の油注ぎ、イエス・キリストの十字架の血による贖いによって救われた者は皆、この世界に対する祭司の役割をもいただいている。それは、人々の罪を贖い清め、主なる神と人々の交わりを回復する役目である。

 どのようにしてそれが出来るのか? 祈りと御言葉によって主に仕え、主と共にある喜びと感謝と愛の中に生きることによってではないか。

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バプテスマ準備クラス 2022年1月16日

バプテスマ準備クラス 2022年1月16日
聖霊

聖霊は、救い主イエス・キリストを証しし、これを告白させ、又助け主として私たちの信仰生活を支え、来るべき救いの完成に至る保証としての働きをなさる方であります」

 今日私達は、信仰告白の「6 聖霊」について学ぶ。この告白は、簡潔な言葉で要点をきちんと述べている。信仰告白の言葉を通して、聖霊信仰の中核をしっかり捉えたい。
 聖霊を信じるというのは、信仰告白の「2 神」で述べられている「愛と義であり、真なる生ける神、創造者なる神、父、子、聖霊として働かれる三位一体の神」の霊を信じるということである。
 聖霊は、幽霊や悪霊や〈精霊〉や人間の霊ではない。また、天使でもない。私達は、ともすると聖霊が、父なる神や子なる神と同様に主なる神であり、礼拝されるべき方であるということを忘れ、聖霊を、非人格的な力のように捉えてしまうことがある。
 確かに、聖書の中には、聖霊「息」「風」として描かれている箇所がある。主なる神は、最初の人を造られた時、「土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた」(創世記2章7節)。イエス・キリストも、復活して弟子達の前に姿を現された時、彼らに「息を吹きかけて」、新しい命を授けられた(ヨハネによる福音書20章21~23節)。また、ユダヤ人の指導者であったニコデモとの対話の中で、聖霊の働きを「思いのままに吹く」「風」に喩えておられる(ヨハネによる福音書3章8節)。
 だからこそ、主なる神が「父、子、聖霊として働かれる三位一体の神」であることを、きちんと受けとめる必要がある。父なる神は、主権者、「創造者」、律法を与える方として、いわば〈私達の上にいます神〉としてご自身を現された。子なる神は、贖い主、救い主として、〈私達と共にいます神〉として来て下さった。そして、聖霊なる神は、弁護者、「助け主」として、〈私達の内にいます神〉として、私達の間で働かれる方である。
 聖霊は、「救い主イエス・キリストを証し」する霊、「イエスは主である」と告白させる霊であり、私達の内にイエス・キリストに対する真の信仰を生み出して下さる。

「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(コリントの信徒への手紙一12章3節)。

「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです」(エフェソの信徒への手紙1章13節)。

 イエス・キリストの十字架と私達の間には、2000年の時の隔たりがある。イスラエルと日本という空間的な隔たりもある。しかし、聖霊が助けて下さることによって、私達は「救い主イエス・キリストをはっきりと知ることが出来る。イエス・キリストの十字架と復活が私のためでもあったことを信じ、イエス・キリストを自分の救い主として、主として受け入れることへと導かれる。そして、イエス・キリストの豊かな恵みに与るようになる。
 勿論、思いのままに吹く「風」のように、聖霊の働きの範囲を限定することは出来ない。しかし、聖霊を信じることは、父なる神を信じること、主イエス・キリストを信じることを無視したり、軽視したりして成り立つものではない。聖霊の働きがイエス・キリスト抜きに強調されるとしたら、それは信仰を骨抜きにしてしまう。
 イエス・キリストの恵みの中心は、〈永遠に私達と共にいて下さる〉ということである。イエス・キリストは、十字架にかけられる前の晩、弟子達にそのことを話された。

「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」(ヨハネによる福音書14章16~17節)。

「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである」(ヨハネによる福音書15章26節)。

 ここで聖霊「弁護者」と呼ばれている。口語訳や新改訳では「助け主」と訳されている。
 イエス・キリストは死んで甦られた後、弟子達と共に過ごされた。しかし、いつまでも弟子達と共におられたわけではなく、聖霊を送る約束を残して、天に昇られた。そして、イエス・キリストの復活から50日目に約束の聖霊が降った(使徒言行録2章1~4節)。聖霊は、いつも私達と共にいて下さり、「助け主として私たちの信仰生活を支え」ると共に、「来るべき救いの完成に至る保証としての働き」をして下さる。
 また、聖霊を受けた弟子達の働きを通して、イエス・キリストの福音は、エルサレムから始まってユダヤサマリアの全土」、そして「地の果てに至るまで」もたらされていく。弟子達は、聖霊を受けた後、イエス・キリスト「証人」として遣わされていった(使徒言行録1章8節)。使徒言行録は、弟子達をはじめとする最初期の教会の働きを記している。しかし、それは、より正確に言えば、弟子達の内にあって力強く働き、教会を通して宣教を進めていかれる聖霊の御業の記録である。聖霊の働きと教会の宣教を切り離すことは出来ない。
 聖霊は、私達に対しても、「助け主」として私達の内にあって働きかけ、私達を生かして下さる。そして、私達を立ち上がらせ、御自身の御業のために私達を用いて下さる。

2022年1月16日(日) 週報

2022年1月16日(日) 降誕節第4主日

○礼拝プログラム
招詞 テトスへの手紙2章11節
讃美 9(ちからの主を ほめたたえまつれ)
交読 イザヤ書56章1~8節(新共同訳 旧約pp.1153-1154)
主の祈り
聖書拝読 マルコによる福音書3章31~35節(新共同訳 新約p.66)
祈り 司式者
讃美 326(ひかりにあゆめよ)
宣教 「ここにわたしの家族がいる」柏本隆宏協力牧師
讃美 280(わが身ののぞみは ただ主にかかれり)
祈り
奉献
頌栄 539(あめつちこぞりて)
祝祷 柏本隆宏協力牧師
報告

○報告
1. 沖縄県内で新型コロナウィルスの感染が再び拡大しています。礼拝に参加される方は、消毒液による手洗いとマスク着用の上、間隔を空けて座り、引き続き新型コロナウィルスの感染予防にご協力をお願い致します。その一方で、希望される方にはzoomによる同時中継も行います。10:30になりましたらご入室下さい。IDとパスワードにつきましては、参加希望の申し出をして下さった方に対し、ご案内を差し上げます。
2. 2月の間毎週水曜日バプテスマ準備クラス(13:30~)と祈祷会を行います。バプテスマに向けての準備の一つ一つの上に、聖霊のお守りとお導きがありますようお祈り下さい。また、祈祷会への参加を希望される方は事前にお知らせ下さい。その一方で、日常生活の中で聖書通読と祈りを大切にし、主なる神との交わりの時を毎日確保しましょう。
3. 1月20日(木)、日本バプテスト連盟の第67回定期総会が行われます。今回は加盟教会が総会前に書面で議決権を行使する〈書面による総会〉となります。私達の教会は、柏本協力牧師を代議員として登録し、書面にて各議案に対する意思表示を行いました。
4. ブログは随時更新しています。聖書日課の箇所に関する短いメッセージを載せていますので、日々の聖書通読の一助としてご参照下さい。
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○トラクト配布について 2021年度: 2,265部(2022年1月16日時点)
教会周辺 50部
教会~小橋川公民館 道路沿い 50部
国道329号線沿い(西原シティ~内間バス停) 25部
西原東小学校周辺 150部
西原町役場周辺(西原町与那城) 95部
西原台団地 95部
県営与那原第二団地(与那原町板良敷) 50部
中城村南上原 50部
与那古浜公園周辺(与那原町東浜) 100部
西原高校周辺 350部
琉球大学病院周辺(西原町上原) 50部
琉球大学教育学部附属小学校周辺(西原町千原) 140部
首里駅周辺 215部
石嶺団地周辺(首里石嶺町) 150部
県営幸地高層住宅(西原町幸地) 50部
首里高校周辺 75部
浦添前田駅周辺 150部
経塚駅周辺 180部
儀保駅周辺 65部
市立病院前駅周辺(首里末吉町) 145部
旭橋駅周辺 25部

○聖書日課
16日(日) レビ記6章
17日(月) レビ記7章
18日(火) レビ記8章
19日(水) レビ記9章
20日(木) レビ記10章
21日(金) レビ記11章
22日(土) レビ記12章

西原新生バプテスト教会
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聖書日課 レビ記7章

聖書日課 レビ記7章(新共同訳 旧約pp.170-172)

 レビ記の1章から7章にかけて、イスラエルの人々が幕屋でささげる献げ物についての規定が記されていた。

「以上は焼き尽くす献げ物、穀物の献げ物、贖罪の献げ物、賠償の献げ物、任職の献げ物、和解の献げ物についての指示であって、主がシナイ山においてモーセに命じられたものである。主はこの日、シナイの荒れ野において、イスラエルの人々に以上の献げ物を主にささげよと命じられたのである」(37~38節)。

「焼き尽くす献げ物、穀物の献げ物、贖罪の献げ物、賠償の献げ物、任職の献げ物、和解の献げ物」には、それぞれ意味が込められている。では、献げ物には、どのような意味があるのだろうか。ここで、まとめとしてもう一度確認しておきたい。

 イスラエルの民の信仰生活の中心は、幕屋で行われる祭儀にあった。祭儀は、主なる神との交わり(礼拝)であり、その交わりを維持・回復するために献げ物がささげられた。

 主なる神は人々との交わりを願っておられる。礼拝とは主なる神との交わりであり、旧約時代の礼拝は祭儀であった。しかし、献げ物や祭儀自体が、主なる神との交わりを作り出すわけではない。イスラエルの民が神の民とされたのは、主なる神の一方的な恵みによる。献げ物による祭儀は、交わりを維持、回復、更新する役目を果たしていた。

 同じように、私達の救いも、主なる神の一方的な恵みによる。私達は、救われるために礼拝するのではない。救われて主なる神との交わりに入れられたから礼拝する。つまり、礼拝の根本は恵みであり、感謝である。交わりを喜び楽しむところに礼拝の本質がある。

 勿論、私達の罪が主なる神との交わりを困難にすることもある。しかし、悔い改めと信仰によって赦しをいただき、再び主との交わりを回復することが出来る。礼拝は、赦しと回復をいただく場でもある。

 旧約の献げ物のうち、特に動物のいけにえは、小羊イエス・キリストを指し示すものである。旧約時代の人々は、動物をささげながら、自分達の罪の身代わりとなる真の救い主を待望していた。一方、私達は、既に来られた救い主を想い起こし、主なる神との交わりの回復(救い)を喜び、感謝しつつ礼拝する。真のいけにえがささげられた以上、動物の献げ物をささげる必要はなくなった。しかし、旧約時代も新約時代も、主イエス・キリストを見上げて、礼拝をささげることに違いはない。

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聖書日課 レビ記6章

聖書日課 レビ記6章(新共同訳 旧約pp.169-170)

 6章には、これまで記されてきた各種の献げ物の規定の施行細則が記されている。

 その始めにあるのが、「焼き尽くす献げ物」についての細則である。それによると、「焼き尽くす献げ物」は、「祭壇の炉の上に夜通し」置かれ、「祭壇の火を燃やし続け」た。

「主はモーセに仰せになった。アロンとその子らに命じて言いなさい。焼き尽くす献げ物についての指示は次のとおりである。焼き尽くす献げ物は祭壇の炉の上に夜通し、朝まであるようにし、祭壇の火を燃やし続ける。朝、祭司は亜麻布の衣服を着け、亜麻布のズボンをはいて肌を隠し、祭壇の上で燃やした献げ物の燃え滓を祭壇の端にかき寄せ、別の衣服に着替え、燃え滓を宿営の外の清い場所に運び出す。祭壇の上の火は絶やさず燃やし続ける。祭司は朝ごとに薪をくべ、その上に焼き尽くす献げ物を並べ、更にその上に和解の献げ物の脂肪を置き、燃やして煙にする。祭壇の上の火は常に絶やさず燃やし続ける」(1~6節)。

 夜が明けると、一晩中「祭壇の上で燃やし」続けた「献げ物の燃え滓」が、「祭司」によって「運び出」された。更に、新たに「薪」「くべ」られて、「焼き尽くす献げ物」「和解の献げ物」がささげられた。そして、この間も、「祭壇の上の火は常に絶やさず燃やし続け」られた。

 こうしてみると、幕屋は〈年中無休〉で、しかも〈24時間営業〉だったことが分かる。幕屋は、主なる神の御住まいであり、主なる神と人が祭儀(礼拝)を通して出会い、交わる場所である。そこでは、日々罪が贖われ、和解の儀式が行われた。そういう場所に、昼も夜も一年中、決して絶えることなく火が燃やし続けられたというのは、ここがいかに重要な場所であるかを表している。

 主なる神は、決して「まどろむことなく、眠ることもない」(詩編121編4節)。一年中昼も夜も、いつでもどこでも、どのような状況でも、主なる神は私達との交わりを求め、私達の罪を赦し、私達を清め生かして下さる方である。

 その主なる神の熱い思いが、あなたの心を包むように!

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聖書日課 レビ記5章

聖書日課 レビ記5章(新共同訳 旧約pp.167-169)

 5章は、前半が「贖罪の献げ物」の続き、後半14節からは、「賠償の献げ物」についての規定である。

「贖罪の献げ物」「賠償の献げ物」は、どちらも罪の贖いと赦しに関するものである。しかし、「贖罪の献げ物」が祭儀的〈清め〉に関わるものであるのに対し、「賠償の献げ物」は、罪の〈償い〉に関わるものである。犯罪行為が、刑事と民事の2つの面から裁判で問われるのに似ている。

 特に、20節以降では、盗み、横領、着服、詐欺をして、隣人に損害を与えた場合、損害総額に「五分の一」を加えて被害者に賠償すること、また「相当額の無傷の雄羊」「主にささげ賠償の献げ物とする」ことが命じられている。

「主はモーセに仰せになった。主を欺き、友人を偽る罪を犯した場合、すなわち預り物、共同出資品、盗品を着服または横領し、あるいは紛失物を着服しておきながら、その事実を偽り、人たるものがそれをしたら罪となりうることの一つについて偽り誓うなら、すなわちこのような罪を犯すならば、彼はその責めを負い、その盗品、横領品、共同出資品、紛失物、あるいは、その他彼が偽り誓ったものが何であれ、すべて返さねばならない。彼はそれを完全に賠償し、おのおのの場合につき五分の一を追加する。責めを負うときは、一日も早く所有者に支払わねばならない。それから彼は償いとして、相当額の無傷の雄羊を群れから取って、主にささげ賠償の献げ物とする。祭司が彼のために主の御前で罪を贖う儀式を行うと、責めを負ったすべてのことに赦しが与えられる」(20~26節)。

 つまり、罪には、人に対する面と主なる神に対する面がある。それ故、賠償もどちらかだけでは不十分である。人に対する面と主なる神に対する面の両方が解決されて、初めて真の赦しと和解が実現する。

 人との関わり、主なる神との関わりを大切に生きたいものである。

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聖書日課 レビ記4章

聖書日課 レビ記4章(新共同訳 旧約pp.165-167)

 4章では、贖罪の献げ物についての規定が記されている。

「主はモーセに仰せになった。イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。これは過って主の戒めに違反し、禁じられていることをしてそれを一つでも破ったときの規定である」(1~2節)。

「油注がれた祭司が罪を犯した」場合(3節)、イスラエルの共同体全体が過ちを犯した場合」(13節)、「共同体の代表者が罪を犯し」た場合(22節)、「一般の人のだれかが過って罪を犯し」た場合と(27節)、その人の立場によって罪を贖う儀式のあり方が少しずつ違っている。

 しかし、全てに共通しているのは、奉納者が献げる動物の「頭に手を置」くこと(4節、15節、24節、29節)、動物の血が流され、また「祭壇の四隅の角に塗」られること(7節、18節、25節、30節)、そして、「脂肪」を全て「祭壇で燃やして煙にする」ことである(8~10節、19節、26節、31節)。つまり、人の立場はどうであれ、罪が赦されるためには、身代わりの命がささげられなければならなかった。

 私は、罪を犯した本人が、身代わりとして殺される動物の頭に手を置く瞬間のことを想像すると、身震いするような実感を覚える。たとえ動物ではあっても、何の罪もない命が、自分の罪の身代わりとなって犠牲になるのである! その時、人は、厳粛な思いにさせられ、真の悔い改めへと導かれるのではないか。

 これは、感情の伴わない、形だけの残酷な儀式などというものではなく、深い罪の認識を伴う、悔い改めと赦しの儀式である。そして、この時ささげられる動物は、間違いなく、真の身代わりである小羊イエス・キリストを指し示すものである。

 新約の時代に生きる私達は、最早動物の犠牲をささげる必要はない。本物の身代わりの犠牲であるイエス・キリストが、十字架の上に御自分の血と命をささげて下さったからである。

 その一方で、私達は、旧約時代に生きた人々のように、自分の犯した罪に対し、身震いするほどの思いをもって悔い改めるということがなくなってしまってはいないだろうか? 罪に対する認識が、余りにも浅く、軽く、頭の中だけのものになってしまってはいないだろうか?

 旧約の贖罪の儀式は、いにしえの時代の野蛮な儀式などではなく、人を真の悔い改めに導く、貴重な実物教育だったのではないか。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
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