ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年に伝道開始50年を迎えます。

聖書日課 ヨハネによる福音書19章

聖書日課 ヨハネによる福音書19章(新共同訳 新約pp.206-208)

 イエス・キリストの十字架の傍には婦人達が立っていた。その中には、イエス・キリストの母マリアもいた(25節)。そこには、息子であるイエス・キリストを思う母親の愛もあったことだろう。しかし、それと共に、いやそれ以上に、イエス・キリストを主と信じる信仰における愛があったのではないか。マリアは、この時までに、イエス・キリストを主なる神の御子として信じるようになっていたのである。

 一方、イエス・キリストも、十字架の苦しみという極限状態の中にあっても、母マリアへの愛と配慮を忘れることはなかった。自分の息子の残酷な死を、ただ呆然と見届けるしかない母親の気持ちを慮り、イエス・キリストは、「母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、御覧なさい。あなたの子です』と言われ」、また弟子に向かっては、「見なさい。あなたの母です」と告げた(26~27節)。「愛する弟子」とは、この福音書の著者である使徒ヨハネ自身のことであると言われているが、「そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」(27節)。

 ここには確かに、家族への愛が示されている。しかし、それと共に、家族への愛を超える、いやそれをも包む大きな愛である神の家族としての愛の絆が示されている。肉親への愛も大切なものであるが(テモテへの手紙一5章4節)、主なる神の御心に従って生きる神の家族の愛は、それをも包み込む、より大きく、より深く、永遠のものである(マルコによる福音書3章34節)。

 また、ここには、誰よりも助けを必要としている者に、真っ先に手を差し伸べるイエス・キリストの愛が表されているとも言える。自分の息子を目の前で失おうとしている母親に、新たな息子をお与えになったのである。これほど適切な配慮は他にないだろう。

 それにしても、イエス・キリストには実の兄弟がいたではないかと思う人がいるかも知れない。しかし、イエス・キリストの兄弟はこの時まだイエス・キリストを信じていなかっただろうと思われる。だからこそ、イエス・キリストは、十字架の傍まで従って来た「愛する弟子」ヨハネに、母マリアを託すことにしたに違いない。

 後にヨハネは、十字架を指して、「ここに愛があります」(ヨハネの手紙一4章10節)と記している。その愛には、ここに見たような愛もあった。十字架は、まさしく愛そのものである

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町字内間27-2
電話・FAX 098-946-0119
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2021年度年間テーマ・年間聖句

2021年度年間テーマ・年間聖句

〈2021年度年間テーマ〉
「強く、雄々しくあれ」

〈2021年度年間聖句〉
「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ」(ヨシュア記1章5~6節)

 西原新生バプテスト教会は、2019年10月より牧師不在の中で毎週主の御前に集い、礼拝を献げてきました。そうした状況にあって、2020年度は、私達の教会にとって大きな試練の年となりました。一つは新型コロナウィルスの問題であり、もう一つは開拓伝道以来、私達の教会を導いて下さった寺澤征一前牧師のご逝去です。
 私達の教会には、牧師招聘をはじめ、取り組むべき課題があります。私達一人一人の人生においても、様々な課題があります。そして、今年度何が起こるかは、誰も分かりません。しかし、それを知っておられ、私達と共にいて下さる方がいます。私達の主なる神です。
 かつて主なる神は、モーセを用いてイスラエルの民をエジプトから脱出させ、40年の荒れ野の旅を経て、約束の地へと導きました。しかし、約束の地を目前にして、モーセは地上の生涯を終えました。モーセの後継者ヨシュアをはじめ、イスラエルの民には、この先いかなる困難が待ち受けているだろうかという不安があったに違いありません。
 そのようなヨシュアに、主なる神は「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ」という御言葉を与えられました。ヨシュアは、この御言葉に励まされ、ヨルダン川を渡って約束の地に入ることが出来ました。
 主なる神は、私達に対しても御言葉をもって励まし、導いて下さいます。主の日の度に招かれ、御言葉をいただき、主との親しい交わりの中に生きることを通して、自分が主の御手の内に生かされていることを確認しましょう。そして、御言葉を信じ、御言葉に押し出されて、2021年度を歩み出していきましょう。
 私達が、自分の願いや思いを超えて、信仰による一歩を踏み出す時、主は私達と共におられることを様々な出来事をもって示して下さいます。そして、私達は主の恵みとご計画の素晴らしさを知ることが出来ます。来年私達の教会は伝道開始50周年を迎えますが、主の御言葉は真実であると証しする群れでありたいと願います。

聖書日課 ヨハネによる福音書17章

聖書日課 ヨハネによる福音書17章(新共同訳 新約pp.202-203)

 17章には、イエス・キリストが最後の晩餐の席で献げた祈りが記されている。この祈りは、〈大祭司の祈り〉と呼ばれ、福音書の中に書き記されているイエス・キリストの祈りの中で、最もまとまりのある長い祈りである。

 旧約時代、大祭司は、神の民を代表して主なる神の前に立ち、人々のために執り成しをした。今イエス・キリストは、真の大祭司として、主なる神と弟子達の間に立ち、御自分が宣教の使命を託した弟子達のために執り成しの祈りを献げられた

 イエス・キリストは天を仰いで祈られた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」(1節)。栄光とは何だろうか。それは、間もなくイエス・キリストがかけられる十字架を意味した。人間の目には敗北と苦しみ以外の何物でもない十字架の死が何故栄光なのだろうか。それは十字架こそが主なる神の勝利の出来事だからである。そして、それによってイエス・キリストは、「ゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができる」(2節)。

 永遠の命とは何だろうか。それは「唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(3節)とイエス・キリストは言われた。ここで言われている「知る」とは、相互の信頼関係に基づく全人格的な交わりを意味し、また信頼することによって体得する知識でもある。つまり、父なる神と子なるイエス・キリストを信頼し、全人格的な交わりの中に生きることが永遠の命である

 この交わりは、生も死も世の何物も断つことは出来ない。この親しく緊密な人格的交わりが、御父と御子からの祝福の源となり、力と励ましと平和の源となる

 私達は、御子イエス・キリストを愛し、その戒めを守り、信仰の従順をもって生きる時、喜びと讃美と感謝の人生へと導かれていく。この世においても、来るべき世においても、この交わりの中に生きることがキリスト者の喜びであり特権である。ここに永遠の命を持つ者の人生がある。

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聖書日課 ヨハネによる福音書16章

聖書日課 ヨハネによる福音書16章(新共同訳 新約pp.200-201)

 ヨハネによる福音書の特徴の一つは、聖霊とその働きに関するイエス・キリストの教えが沢山記されていることである。

 イエス・キリストは、間もなく弟子達と別れなければならなかった。十字架による死が目前に迫っていたからである。それは弟子達にとって大きな衝撃であった。これまで、どんな問題や困難があっても、常にイエス・キリストが彼らと共にいて助けてくれた。しかし、そのイエス・キリストが間もなくいなくなってしまうのである。

 ところが、イエス・キリストは、「わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる」と言われた。「わたしが去って行かなければ、弁護者はあなた方のところに来ないからである」というのである(7節)。この弁護者こそ聖霊なる神である

 聖霊は、「罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」(8節)とイエス・キリストは言われた。まもなくイエス・キリストは十字架につけられる。しかし、それはイエス・キリストに罪があったからではなく、世の人々の罪のためであることを、聖霊は明らかにされる(9節)。また、世の人々は行いによる自分の義を追求している。しかし、聖霊イエス・キリストを信じる信仰による真の義を明らかにされる。十字架につけられたイエス・キリストは、父なる神によって甦らされ、父なる神のもとに栄光の帰還を果たされるからである(10節)。更に、イエス・キリストはこの世の裁判で裁かれて十字架につけられる。しかし、実はそのことにおいて「この世の支配者」であるサタンが「断罪される」(11節)。聖霊は、これらのことを世に対して明らかにする。

 更にイエス・キリストは、聖霊「あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(13節)と言われた。弟子達はしばしばイエス・キリストの言葉を十分に理解出来なかったが(2章22節、11章16節、13章7節など)、真理の霊である聖霊が来ると、弟子達にイエス・キリストの言葉の意味を明らかにする。また、聖霊は自分から語らない。「わたしのものを受けて、あなたがたに告げる」(14節)とあるように、イエス・キリストから聞いたことを語るのである。つまり、聖霊の働きは徹頭徹尾イエス・キリスト中心である聖霊イエス・キリストの事実を知らせ、その意味を明らかにしてくれる。

 教会は、聖霊が天から激しく注がれた時に誕生した(使徒言行録2章)。最初期の教会の人々は、聖霊なる神の力と助けと導きを受けることによって、世界に向けて力強く宣教していった。聖霊と交わり、聖霊の御声を聞き、聖霊と共に歩むこと、それが力強い信仰生活の鍵である

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2021年4月18日(日) 週報

2021年4月18日(日) 復活節第3主日

○礼拝プログラム
招詞 イザヤ書59章21節
讃美 66(聖なる、聖なる、聖なるかな)
交読 詩編105編1~6節(新共同訳 旧約p.943)
主の祈り
聖書拝読 ルカによる福音書24章44〜49節(新共同訳 新約pp.161-162)
祈り 司式者
讃美 502(いともかしこし イエスの恵み)
宣教 「福音の証人となるために」
讃美 142(さかえの主イエスの 十字架をあおげば)
祈り
奉献
頌栄 543(主イエスのめぐみよ)
黙祷
報告

○報告
1. 礼拝に参加される方は、消毒液による手洗いとマスク着用の上、間隔を空けて座り、引き続き新型コロナウィルスの感染予防にご協力をお願い致します。

2. 本日礼拝後に執事選挙の開票を行いますので、お済みでない方は投票をお願い致します。

3. 先週の礼拝後、礼拝に集うことが難しい、主にある兄弟のご自宅を伺いました。短時間の訪問となりましたが、イースターカードをお渡ししたり、教会の近況をお伝えするなど、交わりの時を持ちました。今後お伺いする頻度をもう少し増やすことが出来ればと願っています。

4. 福岡新生教会が月報『アンテオケ』と『世界伝道センターだより』を送って下さいました。また、那覇新都心教会の兄弟姉妹がイースターカードを下さいました。主にある交わりに感謝すると共に、両教会の上に主の祝福が豊かにありますようお祈り致します

5. 2021年度の教会の歩みを協議する「定期総会」は、5月23日(日)ペンテコステ(聖霊降臨日)に、開催する方向で準備を進めていきます。総会後、教会の今後と牧師招聘に関する話し合いの第2回も併せて行います。今回も牧師不在の中で行うことになりますが、新年度が主に喜ばれる歩みとなりますよう祈りつつご参加下さい。また、総会資料として、昨年度の活動報告・決算報告、今年度の活動計画案・予算案をご提出下さい。

6. 昨年度、私達は地域に対する伝道が十分に出来ませんでした。しかし、私達の教会が置かれている西原町、また私達が生活している場には、道・真理・命を求めている方がおられることでしょう。そこで伝道のためのラクの案を作成しました。近隣への戸別配布や親しい方への伝道などにお用い下さい。また、より見やすく、使いやすいものとなるために、気付いたことがありましたらお知らせ下さい。

7. 教会からの発信の手段として開設したブログは随時更新しています。聖書日課の箇所に関する短いメッセージも載せています。URLは下記の通りです。
https://nschrist1972.hatenablog.com/

*過去の宣教から
「私達の両親達も人生を精一杯生きられました。固有の召命を生きられたと信じます。そして私達を育てて下さいました。次は私達がそれぞれの役割を精一杯果たす番です。神の愛によって自分を守り、強くされて、互いに祈り合いつつ、私達の走るべき道のりを走り切りましょう」(2011年11月6日・逝去者記念礼拝、ユダの手紙20~21節)

○聖書日課
18日(日) ヨハネによる福音書15章
19日(月) ヨハネによる福音書16章
20日(火) ヨハネによる福音書17章
21日(水) ヨハネによる福音書18章
22日(木) ヨハネによる福音書19章
23日(金) ヨハネによる福音書20章
24日(土) ヨハネによる福音書21章

聖書日課 ヨハネによる福音書15章

聖書日課 ヨハネによる福音書15章(新共同訳 新約pp.198-199)

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(5節)。

 野菜やその他の実のなる植物を育てた経験のある人であれば、それがどんなに手間のかかる作業であるかをよく知っていることだろう。米も野菜も果物も、農家の人々が、日々手間隙かけて愛情をもって育ててくれるおかげで、私達は毎日美味しく食べることが出来る。

 同じように、父なる神は、私達一人一人を惜しみない愛をもって守り育てて下さる農夫であるとイエス・キリストは言われた(1節)。それは、私達が「豊かに実を結ぶ」(2節、5節)人生を生きるようになるためである。主なる神は私達が豊かに実を結ぶことを喜び願っておられる

 そのために必要なことは何だろうか。それは私達が「まことのぶどうの木」(1節)であるイエス・キリストに繋がっていることである。では、私達はどのようにしてイエス・キリストに繋がっていることが出来るのだろうか。

 それは第一に、イエス・キリストの言葉を心に蓄えることによってである。「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」(7節)とイエス・キリストは言われた。パウロ「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマの信徒への手紙10章17節)と言っている。

 第二に、私達は、イエス・キリストの愛に留まることによって繋がっていることが出来る。イエス・キリストは言われた。「わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」(9~10節)。

「わたしの掟」とは何だろうか。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(12~13節)。つまり、イエス・キリストの愛に留まるとは、私達が互いに愛し合う交わりを築いていくことである。

「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」(11節)とイエス・キリストは言われた。このような愛と喜びに満ちて生きること、それが豊かに実を結ぶ人生である。

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」(16~17節)。

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聖書日課 ヨハネによる福音書14章

聖書日課 ヨハネによる福音書14章(新共同訳 新約pp.196-198)

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」(1~3節)。

 これは、十字架という衝撃的な出来事を目前にして、イエス・キリストが弟子達に語られた言葉である。

 イエス・キリストは、弟子達のために天に場所を用意したら、再び戻って来て、彼らを御自分のもとに迎えると言われた。それは、「わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」ためであった。イエス・キリストの再臨は、弟子達にとって希望であり、生きる力を与えてくれるものであった

 ところが、トマスは言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」(5節)。

 この時のイエス・キリストの答えは有名である。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている」(6~7節)。

 道について語ったり、道を指し示してきた人物は数多くいる。しかし、「わたしが道である」と自分を指して宣言したのはイエス・キリストただ一人である。人類は、歴史の中で宗教や哲学の名のもとに多くの道を切り開いてきたが、天に通じる真の道は存在しなかった。真の道は、人間が作り出せるものではなく、天から与えられて、その上を歩かせていただく以外にないものだからである。それが、人となってこの世に降り、父なる神を表して下さったイエス・キリストである。

 更に、イエス・キリストは言われた。「わたしを見たものは、父を見たのだ。…わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである」(9~10節)。

 私達は、主なる神を知りたければイエス・キリストを見ればよい。主なる神の御言葉を聞きたければイエス・キリストの御言葉を聞けばよい。主なる神の愛を知りたければイエス・キリストの愛を見ればよい。イエス・キリストの御業を見よう。そうすれば、そこに生きて働く主なる神の愛と力が見える。

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聖書日課 ヨハネによる福音書13章

聖書日課 ヨハネによる福音書13章(新共同訳 新約pp.194-196)

 十字架の死を目前にして、イエス・キリストが最後の最後に弟子達になさったこと、それは彼らを「この上なく愛し抜かれ」るということであった(1節)。そして、その愛の表現として、イエス・キリストは弟子達一人一人の足を洗われた(5節)。

 当時、〈足を洗う〉という行為は僕や奴隷のする仕事だった。それ故、シモン・ペトロは驚き、彼の足を洗おうとするイエス・キリストに、「わたしの足など、決して洗わないでください」(8節)と断った。しかし、この時、イエス・キリストはペトロにこう言われた。「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」(8節)。

 仕えられるためではなく仕えるために来られたイエス・キリスト全ての者の僕となって御自分の使命を完成されるイエス・キリスト。受難の僕として、十字架で死ぬことによって人々に救いと平和をもたらすイエス・キリスト…。イエス・キリストに足を洗ってもらうというのは、このようなイエス・キリストの恵みを受けることを意味していたのを、ペトロは知らなかった。

 勿論、ペトロが辞退したのは、弟子としての自然な思いであり、イエス・キリストを師と仰ぐ故の態度でもあった。しかし、人間の自然な感情がそのまま全て真理に適うとは限らない。イエス・キリストは、ペトロの見せた態度の中に、なお砕かれなければならないものがあることを見抜いておられた。イエス・キリストに足を洗っていただくためには、素直で謙遜な心が必要だった

 他者のために積極的に仕え、犠牲を払って人々を助けている信仰者が、他者から同様の援助を受ける時、それを素直に受け入れるのがなかなか出来ないということがある。そのためには、謙りの心が必要である。信仰とは謙ることであり、自分の思い上がりを悔い改めることである

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聖書日課 ヨハネによる福音書12章

聖書日課 ヨハネによる福音書12章(新共同訳 新約pp.191-194)

 ヨハネによる福音書は、12章から21章まで、イエス・キリストの地上における生涯の最後の一週間について記している。

 12章には、大勢の群衆がイエス・キリストエルサレム入城を出迎えたことが記されている(12~13節)。この時、人々の中に「何人かのギリシア人」がいて、「イエスにお目にかかりたい」と願い出た(20~21節)。イエス・キリストは、その報告を受けて、次のように言われた。

「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」(23~25節)。

「人の子が栄光を受ける時が来た」イエス・キリストは言われた。「栄光」とは何だろうか。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」と言われているように、それはイエス・キリストが十字架にかけられて死ぬことを意味している。そして、その結果、罪人の救いの道が開かれ、福音が全ての国民に届けられるようになること、それが「栄光」である。ギリシア人の来訪は、その時が来たことのしるしであったに違いない。

 イエス・キリストは、「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」と言われた。人は本来、自己中心や自己保身のためにではなく、隣人と互いに愛し合い、互いのために生きるように造られている。それが永遠の命に至る生き方である。イエス・キリストの十字架は、まさにそのような生き方の結晶であり、最高の模範である。それ故、イエス・キリストはこう勧めている。

「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる」(26節)。

 イエス・キリストに仕え、イエス・キリストに従い、イエス・キリストと共に生きることは、イエス・キリストが私達を愛し、私達のために命を捨てて下さったように、私達も、互いに愛し合い、互いのために命を捨てて生きることである。その時、天の「父はその人を大切にしてくださる」

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聖書日課 ヨハネによる福音書11章

聖書日課 ヨハネによる福音書11章(新共同訳 新約pp.188-191)

 11章には、ラザロの死と蘇りの奇跡が記されている。

 ラザロの姉妹達は、イエス・キリストのもとに人を遣わし、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と伝えた(3節)。

 ラザロが病気で死にかけているという知らせが届いた時、イエス・キリストは、「なお二日間同じ所に滞在された」(6節)と聖書は記している。そのため、イエス・キリストがラザロの家に到着した時、「ラザロは墓に葬られて既に四日もたって」(17節)しまっていた。

 時既に遅し! ラザロの姉妹マルタは、イエス・キリストを迎えに出て、こう言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(21節)。妹のマリアも、イエス・キリストの足もとにひれ伏して同じことを言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(32節)。

 ここには、「死んでしまったらもう遅い! もうおしまいだ!」という絶望と落胆の思いが込められていた。泣き崩れる人々を御覧になったイエス・キリストは、憤りを覚え(33節)、涙を流された(35節)。

 しかし、この時イエス・キリストは言われた。

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(25~26節)。

 そして、ラザロの墓の前に立ち、石を取りのけさせて、大声でこう言われた。「ラザロ、出て来なさい」(43節)。すると、忽ちラザロは蘇り、手と足を布で巻かれたまま出て来た(44節)。

「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」(4節)。

「マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」(5節)イエス・キリストは、その言葉通り、この病気を「死で終わるものではない」「神の栄光のため」の機会とされた(4節)。死の絶望を打ち破って、ラザロを蘇らされた。

 イエス・キリストは、死の現実に絶望し、「もう遅い! もうおしまいだ!」と泣き崩れる人々の所に来られ、絶望を打ち破る奇跡を起こして下さる。このイエス・キリストに信頼し、聞き従って生きるなら、私達も絶望から解放されて生きる者とされるイエス・キリストは今も、絶望の中にいる人に呼びかけておられる。「ラザロ、出て来なさい」と。

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