ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 マルコによる福音書1章35~45節

聖書日課 マルコによる福音書1章35~45節(新共同訳 新約pp.62-63)

要約
 イエス・キリスト「朝早く」「人里離れた所」で祈られた。イエス・キリストは福音を「宣教する」ためにこの地に来たと言われ、「会堂」で教え、「悪霊を追い出された」。また、「重い皮膚病を患っている人」を癒され、その噂を聞いた人々は、イエス・キリストのもとに「集まって来た」

(1) そのためにわたしは出て来た(35~39節)

 主なる神の働きには明らかな目的と方向がある。イエス・キリストは公生涯の間、父なる神の目的と方向に自分の人生を合わせるために、「朝早くまだ暗いうちに」「人里離れた所」で祈られた。イエス・キリストは祈りの答えが与えられると即座に実践に移された。イエス・キリスト「近くのほかの町や村」は勿論、ガリラヤ中」を回って神の国の福音を宣べ伝えられた。イエス・キリスト「そのためにわたしは出て来たのである」と言われるほど(38節)、ご自分の目的と方向を正確に知っておられた。私達の人生もイエス・キリストと同じ目的と方向に焦点を合わせなければならない。私達が行く先々で、全ての民と国が福音を肯定的に聞かなければならない。サタンの力が退き、神の国がこの地上に建てられなければならない。主の目的と方向に焦点を合わせて祈りつつ従えば、この働きを十分に担うことが出来る。

 一日の生活を主の目的と方向に合わせるために、いつどこで祈りますか。それを守るために何を放棄すべきですか。

(2) わたしの心だ。清くなれ(40~45節)

 イエス・キリストは私達の霊と心と体が全きものとなることを切に願っておられる。「重い皮膚病を患っている」人がイエス・キリストの前に来て、「ひざまずいて願」った。イエス・キリストの答えは簡単だった。「わたしの心だ。清くなれ」(41節、新改訳)。イエス・キリストは苦しみ、癒しを求める人の差し伸べる手を決して拒絶されず、いつも憐れみの心で応えて下さった。イエス・キリストは癒された人に、「だれにも、何も話さない」「祭司に体を見せ」、主なる神に感謝の献げ物をささげるよう命じられた。このことは、イエス・キリストが律法を守られ、主なる神の戒めを尊重されていたことを証明している。しかし、彼はイエス・キリストの言葉に従わず、「この出来事を人々に告げ、言い広め」た。このような彼の行動は、主の働きを寧ろ妨げるものとなった。人間的な判断ではなく、神の国の栄光と目的のために完全に従わなければならない。

 あなたが全きものとなることを願っておられる主の愛を感じますか。自分の考えではなく主の御心に従うために注意すべきことは何ですか。

祈り
 主のように、あなたに出会う時間を一日の最優先とさせて下さい。今日出会う全ての人に豊かな愛と憐れみを注ぎ、知恵をもって接することが出来ますように。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
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聖書日課 マルコによる福音書1章16~34節

聖書日課 マルコによる福音書1章16~34節(新共同訳 新約pp.61-62)

要約
 シモンとアンデレ、ヤコブヨハネは、ガリラヤ湖のほとり」イエス・キリストの召しを受けた。彼らは「すぐに網を捨てて」イエス・キリスト「従った」イエス・キリスト「カファルナウム」「会堂」で御言葉を教え、町々を回り、「いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし」「多くの悪霊を追い出」された。

(1) 弟子の道(16~20節)

 イエス・キリスト神の国の福音を証ししながら最初にされたのは、弟子達を召して養育されたことである。イエス・キリストの弟子となるためには、神の国の永遠なる宝のために、この世の朽ち果てるものを捨てなければならない。〈この世か、神の国か〉の選択が、弟子の道の出発点であり、分かれ道である。シモンとアンデレ、ヤコブヨハネ「漁師」だった。彼らは「人間をとる漁師にしよう」というイエス・キリストの言葉を聞いて、全財産と言える「舟」「網」、家族までも捨て置いてイエス・キリストに従った。今日もイエス・キリストに従おうとする人には、主の故に手放す決断を要求される。アブラハムが生まれ故郷と父の家を離れたように、これまで大切にし、誇らしく思っていたものを塵あくたのように思ったパウロのように、神の国の宝の大切さを知り、新しい選択をして主に従おう。

 主の全き弟子となるために、捨てなければならないことは何ですか。捨てた時、主の方法で満たして下さるという信仰がありますか。

(2) 全き癒し(21~34節)

 イエス・キリストはこの地に来られてサタンの力を滅ぼし、神の国を建てられた。イエス・キリスト「カファルナウム」「会堂」「教え」ておられた時、「汚れた霊に取りつかれた男」がいた。イエス・キリストがどのような方かを悪霊も知っていた。イエス・キリスト「黙れ。この人から出て行け」という一言で悪霊を追い出した(25節)。イエス・キリストの言葉には「権威」があり、人々を動かす力があった。また、イエス・キリスト「熱を出して寝ていた」ペトロの「しゅうとめ」を癒したが、彼女は病が癒されるとすぐに起き上がって「一同をもてなした」。悪しき心と弱さ、痛みと悲しみは、主なる神が創造された姿ではない。これはサタンが人間世界に植えつけた毒麦によって変形した姿である。イエス・キリストの御名が伝えられる所はどこでも悪霊の力は打ち倒され、病はなくなり、創造の原型が回復される。

 イエス・キリストが行く所に癒しと回復があるように、私達が行く所ごとに恵みが溢れていますか。そのために何を求めるべきですか。

祈り
 私の生活と家庭と働きの場で、主の癒しと回復を経験させて下さい。私が行く先々で、主の完全な癒しと回復の御業がありますように。

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聖書日課 マタイによる福音書28章

聖書日課 マタイによる福音書28章(新共同訳 新約pp.59-60)

 イエス・キリストの復活は、私達の常識を超えている。しかし、聖書は、イエス・キリストが復活されたことを、当然のことのように語り、改めてそれ自体を問うたりはしていない。イエス・キリストは、復活された後、御自身が生きておられることを弟子達にお示しになった(16~17節)。復活は、論証されるべきことではなく、宣言されることであり、一人一人が御言葉において、復活の主と出会うことによって、初めて本当に分かることである(5~10節)。

 その後、イエス・キリストは、弟子達の見ている前で、「天に上げられた」(使徒言行録1章3~11節)。天に昇られたイエス・キリストは、終わりの日に完全な裁きのために再び来られるまでは、天におられる。

 では、イエス・キリストが今天におられるならば、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という約束はどうなったのだろうか(マタイによる福音書28章20節)。確かに、イエス・キリストは、目に見えるお姿で地上におられるわけではない。しかし、主御自身が約束して下さったように、主は天から「弁護者」、助け主としての聖霊を送って下さる(ヨハネによる福音書14章16~17節、使徒言行録2章33節)。イエス・キリストは、御自身の霊である聖霊において、今も後も永遠に私達と一緒にいて下さる。

 それ故、この地上の歩みの中で、私達がいかなる困難に直面したとしても、行く手を阻まれ、四方八方を塞がれてしまったとしても、イエス・キリストがおられる天を仰ぐことが出来る。天とは、イエス・キリストがおられる所であり、そこに「わたしたちの本国」がある(フィリピの信徒への手紙3章20節)。しかも、その天において、イエス・キリストは、父なる「神の右におられ」、私達のために執り成しをして下さっている(ペトロの手紙一3章22節)。私達はいかなる時にも、天におられるイエス・キリストの執り成しによって守られている。また私達と共にあり、私達の内に住んで下さる聖霊の励ましによって、いつも支えられている。

 一方、イエス・キリストの復活は、「わたしたちが義とされる」ことに関わる(ローマの信徒への手紙4章25節)。イエス・キリストは、その甦りによって、死の力に打ち勝たれ、義の道を切り開いて下さった。聖書において、死は単に生物学的な命の終わりとして捉えられているわけではない。私達の死は、主なる神に対する罪の結果として入り込んできた。しかし、イエス・キリストは、死に至るまでの徹底した従順によって、主なる神の義を満たして下さった。御自身の死によって、罪と死の支配を終わらせられた。そして、復活によって、私達が主なる神の義に与ることが出来るように、救いの道を切り開いて下さった。私達の義は、私達の内にあるのではなく、私達の外、イエス・キリストの内にある。私達は、このイエス・キリストと一つに結ばれることによって、イエス・キリストの義に与らせていただく。

 復活されたイエス・キリストは、弟子達に「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」とお命じになっている(19~20節)。バプテスマ(洗礼)は、私達が「キリスト・イエスに結ばれ」て、「キリストと一体にな」ることである(ローマの信徒への手紙6章3~11節)。私達は、イエス・キリストの死に結ばれることによって、古い罪の自分に死ぬ。そして、イエス・キリストの復活に与ることによって、新しい命に生きる。

 更に、イエス・キリストの復活は、私達の復活を保証する。確かに、私達は、イエス・キリストに結ばれて、今既にその復活の命を生き始めている。しかし、この肉の体、朽ちていく体が全く新たにされるという意味で復活を経験するのは、終わりの日のことである。終わりの日に、主なる神の御前に、朽ちない栄光の体に甦って、永遠に主の御名をほめたたえるのである。この地上においては、いくら新しくされたといっても、私達は死なない体を得たわけではない。しかし、死によっても決して空しくされることのない復活の望みが与えられている(ヨハネによる福音書11章25節、ローマの信徒への手紙8章11節)。それは決して不確かな望みではない。主イエス・キリストの復活によって保証されている(コリントの信徒への手紙一15章20~22節)。

 聖書は、私達がイエス・キリストと一つに結ばれることを、とても大切に受けとめている。私達がイエス・キリストと一体になり、イエス・キリストの中にいるならば、イエス・キリストの身に起こったことは、私達の上にも起こることになる。私達は、イエス・キリストと共に死んで甦らされるだけではない。更にその先がある。イエス・キリストと共に天の王座に着かせていただき、「キリストが現れるとき」には、私達も「キリストと共に栄光に包まれて現れる」(コロサイの信徒への手紙3章4節)。イエス・キリストと一つに結ばれる時、私達はイエス・キリストの内にあるので、イエス・キリストが持つものを私達も持つことになる。それは何という驚くべき救いの約束だろうか。

祈り
 愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの大きな愛、深い慈しみに包まれ、御前にあることを心から感謝致します。

 主よ、私は、あなたと共に歩みたいという思いを与えられました。そのように思っている自分に酔って、それを喜びとしている時もありました。

 しかし、あなたから離れて罪に倒れ、更に揺れ動く自分の思い、罪深い性質を知り、自分の意志ではあなたと共に歩むことなど出来ないと思い知らされました。

 しかし、聖書の言葉を通して語りかけて下さるあなたの御声を聞き続ける時、「私が」ではなく、「あなたが」このような私と共に歩み、私を支え、私を握り、私を背負って下さっていることを知りました。

 主よ、ありがとうございます。あなたは、このような私と共にいて下さいます。

 更に、あなたをほめたたえ、あなたを喜ぶことが出来るよう、あなたの御霊と命を注いで下さい。

 今日も、困難の中にある方と共にあって下さい。うずくまる方を支え、背負い、立ち上がろうとする方を力づけて下さい。必要な助えを届けて下さい。

 感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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聖書日課 マタイによる福音書27章

聖書日課 マタイによる福音書27章(新共同訳 新約pp.56-59)

 イエス・キリストは、ローマの総督「ピラト」によって死刑の判決を受け、「十字架につけ」られた(26節)。イエス・キリストが裁かれたという時、そこには二重の意味がある。

 確かに、目に見える現実としては、イエス・キリストは、ピラトの下で裁かれ、十字架刑を言い渡された。しかし、ピラト自身はイエス・キリストの無罪を知っていた。そうだとすれば、ピラトの裁判はインチキだということになる。民衆が気に入るように、罪のない方を罪に定めたことになる。

 しかし、そこではもう一つの目に見えない裁きが行われていた。人間の手による出鱈目な裁きをも用いて、主なる神の裁きが行われた。全ての人間の罪を贖うために、主なる神の独り子が十字架にかかって死なれた。私達が受けるべき主なる神の裁きが、十字架刑として御子イエス・キリストの上に下された。御子は罪がないのに罰せられた。この世の裁判の不完全さ、過ちを通して、主なる神の御心が行われた。主なる神の御心に従って、イエス・キリストは十字架につけられた。

 そして、十字架につけられたというのは、主なる神に呪われたということである(申命記21章22~23節)。当時、ユダヤの社会で一般に行われていた死刑の方法は、石打の刑だった。しかし、イエス・キリストは、十字架につけられて死なれた。そのため、ユダヤ人は、「木にかけられ」て死んだイエスという男は、主なる神に「呪われている」、そのような人間を主なる神の独り子、救い主キリストとして宣べ伝えるのは、主なる神に対する冒瀆であるという批判を展開した。

 それに対し、使徒パウロは、この批判をそのまま引き受けながら、切り返している。確かに、イエス・キリストは十字架にかけられて殺された。主なる神に呪われた。しかしそれは、本来私達が受けるべき主なる神の「呪い」を、御子が代わって受けて下さったということに他ならないとパウロは言う(ガラテヤの信徒への手紙3章13節)。パウロは、ユダヤ人の非難を真向から受けて立ち、その論理を逆手にとって、福音の真理を鮮明に描き出した。

 ローマの信徒への手紙1章18節で、パウロ「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます」と述べている。主なる神は私達の「不信心」「不義」を決して見過ごしになさる方ではない。主なる神は義なる方なので、「不義」に対しては「怒りを現され」る。

 十字架にかけられたイエス・キリストを、人々は「神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」(40節)、「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう」と罵った(42節)。いずれもイエス・キリストの苦難の意味を全く理解していない言葉である。もしイエス・キリスト「十字架から降り」たならば、主なる神に裁かれるべき私達の罪はそのまま残る。私達は、自らの罪の故に、主なる神の激しい怒りによって焼き尽くされるほかない。しかし、主なる神はその怒りを、私達の上にではなく、独り子の上に下された。私達が受けるべき主なる神の怒りと罪の裁きを、イエス・キリストが代わって引き受けて下さった。イエス・キリストは、「十字架から降り」ないことによって、私達の救いを全うして下さった。

 また、十字架上のイエス・キリストの叫びがしばしば問われる。主は「エリ、エリ、レマ、サバクタニ「大声で叫ばれた」。この叫びは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である(46節)。キリスト教に反対する人は、こんな情けない叫びを上げて死んでいったような人間が救い主である筈がないと言って、この叫びを格好の攻撃材料にしてきた。しかし、イエス・キリストはまさに、私達に代わって、主なる神から「見捨て」られて下さった。命の源である主なる神から引き離されるという絶望を味わい尽くして下さった。

 私達は、主なる神が私達を愛して下さっているということを繰り返して聞かされている。しかし、私達は、主なる神の愛について聞かされる心地良さの中で、忘れてしまってはならない。愛される資格のない私達が、主なる神に愛され、主なる神に受け入れられるために、御子イエス・キリストが、主なる神と私達の間に立ち、主なる神の御怒りを一身に受けて、苦しみを負われたということを。御子イエス・キリストが、十字架の上で完全に贖いを成し遂げて下さったからこそ、私達は永遠の刑罰から解放された。そして、私達に主なる神の恵みと義と永遠の命がもたらされた。

祈り
 愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの絶大な愛と恵みの中に置いて御前に引き出して下さったことを心から感謝致します。

 主よ、イエス・キリストはあなたの独り子という絶大な栄光と権能を捨てて、十字架で死なれました。御子が全てをお引き受け下さったあなたの御怒りと刑罰はどのようなものだったのでしょう。

 今、私達はそれを窺い知ることさえ出来ません。御子が私達に代わり、それを全て受けとめて下さったからです。今、御子の贖いによってあなたから赦されていることを、心から感謝致します。

 主よ、あなたの御子は死の力と呪いを打ち砕いて甦られました。御子を死から甦らせたあなただからこそ、私達を甦らせて下さいます。あなたが永遠に握って下さっていることを、心から感謝致します。

 甦られた御子、今も生きておられる御子が私達と共にいて下さいます。私達は、何と幸いなことでしょう。何と喜ばしいことでしょう。

 主よ、苦しみと痛み、悲しみの中にある方をどうか訪れて下さい。立ち上がろうとしている方を励まし、力を注いで下さい。また、援助のために遣わされている方、行政に関わる方に知恵と一致と勇気をお与え下さい。

 感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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聖書日課 マタイによる福音書26章

聖書日課 マタイによる福音書26章(新共同訳 新約pp.51-55)

 26章は、とても長い章で、「ベタニア」「シモンの家」「香油を注」がれる出来事から始まり、最後の晩餐、ユダの裏切り、「ゲツセマネ」の祈り、イエス・キリストの逮捕と裁判、そして、ペトロがイエス・キリスト「知らない」「三度」否定した出来事が記されている。イエス・キリストが十字架にかけられる時が刻一刻と近づいていた。

「祭司長たちや民の長老たち」は、「カイアファという大祭司の屋敷に集まり」イエス・キリストをどうやって「捕らえ」「殺そう」かと相談した(3~4節)。しかし、彼らは、「民衆の中に騒ぎが起こるといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた(5節)。

 確かにイエス・キリストは、これらの人々の計略によって捕らえられ、裁判にかけられ、殺された。人間の妬みと悪意によって捕らえられ、死に至らしめられた。しかし、それはあくまでも真実の一面でしかない。イエス・キリストは、決して人間の罪と悪のなすがままになって十字架にかけられてしまったのではない。十字架は、主なる神の御旨であり、主なる神の御計画だった。イエス・キリストは自分を捕らえに来た人々に言われた。

「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである」(55~56節)。

 人々は悪意をもってイエス・キリストを抹殺しようとした。しかし、主なる神の御計画はその中にも着々と進められていた。それ故、彼らが「祭りの間はやめておこう」と言っていたにもかかわらず、実際には祭りの最中にイエス・キリストは殺された。何故そうなったのか? それが主なる神の御計画だったからである。全ての罪を取り除く主なる神の小羊として、イエス・キリストは真の過越の小羊となられた。

 私達の人生にも、悪や罪に翻弄されているかのように思える時がある。しかし、そのような時にも、主イエス・キリストは私達と共におられ、助け、守り、導き、御計画を進めておられる。だからこそ、使徒パウロはこう言った。

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(ローマの信徒への手紙8章28節)。

 この約束を、私達は決して忘れてはならない。

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聖書日課 マタイによる福音書25章

聖書日課 マタイによる福音書25章(新共同訳 新約pp.49-51)

 25章では、前の章で教えられた「世の終わるとき」に備えて、どのように生きるべきかが三つのたとえをもって語られている。

 一つ目のたとえは、「十人のおとめ」のたとえである(1~13節)。「花婿を迎え」「十人のおとめ」のうち(1節)、「五人」「愚かなおとめたち」は、ともし火と共に「油の用意をしていなかった」ため(3節)、「真夜中」にやって来た「花婿」「迎えに出」られず、婚宴の「戸が閉められ」てしまった。一方、「壺に油を入れて」用意しておいた「賢いおとめたち」は、花婿を出迎え、「婚宴の席に入」ることが出来た(10節)。イエス・キリストがいつ来られても大丈夫なように、備えて生きることが教えられている。

「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」(13節)。

 二つ目のたとえは、「タラントン」のたとえである(14~30節)。「僕たち」が主人から「財産を預」かった(14節)。「五タラントン預かった者」「二タラントン預かった者」は、「それで商売をして」、それぞれ「五タラントン」「二タラントンをもうけた」(16~17節)。しかし、「一タラントン預かった」僕は、何もせずに「主人の金を隠しておいた」(18節)。やがて「主人が帰って来」た時(19節)、商売をしてもうけた僕たちは、その「忠実」さを褒められ、より「多くのものを管理」するようになった(20~23節)。しかし、「恐ろしくな」って預かった財産を「隠してお」いた僕は、財産を「取り上げ」られて追い出されてしまった(28節)。

 終わりの時代に生きる者は、主なる神からいただいている賜物を大いに用いて生きるべきである。イエス・キリストは、信仰に生きることが、そういう積極的なものであることを教えられた。

「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」(29節)。

 三つ目は「羊」「山羊」の話である(31~46節)。これは、たとえというよりも、イエス・キリストの再臨の時に実際に起きることであると思われる。「羊」に喩えられているのは、「飢えていた」人に「食べさせ」「のどが渇いていた」人に飲み水を「飲ませ」「旅をしていた」人に「宿を貸し」「裸」の者に服を「着せ」「病気」の人を「見舞い」「牢にいた」人を「訪ね」た人達である(35~36節)。彼らは、主なる神に「祝福され」、御国を「受け継」ぐ者とされ(34節)、「永遠の命にあずかる」(46節)。一方、「山羊」とは、全くそうしなかった人達で(42~43節)、彼らは「永遠の罰を受け」る(46節)。

 この時イエス・キリストは言われている。

「はっきり言っておく、わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(40節)。

 自分の周りにいる病んだ人、痛んだ人を愛し、その必要に応えることは、イエス・キリストを愛し仕えることと同じである。何故なら、イエス・キリストは彼らの中におられるからである。そのようなイエス・キリストに、私達は日々出会っているだろうか。

祈り
 愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの大きな愛の御手の中に置いて、御前に引き出して下さったことを心から感謝致します。

 主よ、あなたが大切になさったのは、低められ卑しめられていた人でした。罪に泣き、自分を自分でどうすることも出来ない人でした。そのような人を「わたしの兄弟」と呼ばれました。

 主よ、あなたは、このような罪深い、汚れた私をも「わたしの兄弟」と呼んで下さるのですか。

 あなたが私を愛して下さったように、互いに愛し合うことが出来るよう、互いに大切にすることが出来るよう、あなたの御心を私達一人一人に注いで下さい。

 今、困難の中にある兄弟姉妹お一人お一人を支えて下さい。また、その方のことを私達一人一人が覚え、あなたから与えられた「タラントン」を用いて、「それぞれの力に応じて」助けの手を差し伸べることが出来ますよう、力づけて下さい。

 感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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聖書日課 マタイによる福音書24章

聖書日課 マタイによる福音書24章(新共同訳 新約pp.47-49)

 24章は、イエス・キリストが弟子達の質問に答えて、「世の終わるとき」について教えられた章である(3節)。終末の教えは、旧新約聖書全巻を通して語られている大事なメッセージである。やがて必ず終わりの日がやって来る。その日には、罪と悪の全てが裁かれ、取り除かれる。しかし、同時にその日は、主に依り頼む者、イエス・キリストに信頼し「最後まで耐え忍ぶ者」にとっては救いの日となる(13節)。御言葉ははっきりそう教えている。

 この教えの中で、イエス・キリストは、「人に惑わされないように気をつけなさい」(4節)、「慌てないように気をつけなさい」と言われた(6節)。世の終わりが近づくと、偽キリストが現れて人々を惑わしたり(5節)、「戦争」「飢饉や地震が起こ」って慌てさせたりするからである(6~7節)。また、その時には、迫害や「裏切り」が起こり(9~10節)、不法が蔓延って、「多くの人の愛が冷える」とも言われている(11節)。「しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである」イエス・キリストは言われ(8節)、このように勧めている。

「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る」(13~14節)。

 この「終わりが来る」という聖書の教えを、私達はどれほど現実感をもって生きているだろうか。イエス・キリストを信じるキリスト者でも、そういう意識が薄れている、或いはすっかり忘れて生きているということはないだろうか。まして、信仰を持たない人は、尚更のことだろう。人々は「食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりして」、そのような日が来ることなど全く忘れて過ごしている(38節)。

 それ故、イエス・キリストは、「目を覚ましていなさい」と警告した(42節)。「その日、その時」がいつ来るかは、父なる神以外「だれも知らない」からである(36節)。

「だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」(44節)。

 このイエス・キリストの警告の言葉を、私達は決して忘れてはならない。

祈り
 愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの大きな愛の御手の中に置いて、御前に引き寄せて下さったことを心から感謝致します。

 主よ、「天地は滅びる」とあなたが言われる時、私達はあなたの御前にひれ伏します。私達も滅びるべきものです。あなたの御前に誰が立つことが出来るでしょうか。

 しかし、「天地は滅びる」けれども、あなたは私達を握って離さないと仰って下さいます。あなたに信頼出来ることは何という幸いでしょうか。

 今、戦争や自然災害によって、全てを失った方々のことを思います。主よ、どうか天からあなたの助けを遣わして下さい。地にある者に力をお与え下さい。

 立ち上がろうとしておられる方々を力づけて下さい。救援に当たる方々に力を与えて下さい。遠くから支える者に祈りを、援助の心を与えて下さい。

 感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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聖書日課 マタイによる福音書23章

聖書日課 マタイによる福音書23章(新共同訳 新約pp.45-46)

 23章には、イエス・キリストが律法学者やファリサイ派の人々を非難した言葉が沢山記されている。まず1~12節で、イエス・キリスト「群衆と弟子たち」に、「律法学者たちやファリサイ派の人々」の間違いについて警告し、13節以降では、直接彼らに対し、彼らが陥っていた罪と悪を激しい口調で指摘している。

 律法学者やファリサイ派の間違いの一つは、「言うだけで、実行しない」という言行不一致にあった(3節)。彼らはモーセの座に着いている」と自認して(2節)、律法を教えていたが、自分自身はそれを実行していなかった。それは、彼らが律法の本質を見失って形式にばかり拘っていたからである。しかも彼らは、律法にない多くの言い伝えを付け加えて、それを人々に守るよう要求し、「背負いきれない重荷」を負わせながら、「自分では」「指一本貸そうともしな」かった(4節)。これは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われたイエス・キリストとは大違いの姿だった(11章28節)。

 また、彼らの過ちは、その形式化した信仰にあった。「そのすることは、すべて人に見せるためである」イエス・キリストが指摘したように、彼らは「聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたり」して、これ見よがしに、自分がいかに信仰深いかを人々に示していた(5節)。これは「人の前で善行をしないように注意しなさい」と言われたイエス・キリストの教えとは正反対のあり方であり(6章1節)、彼らが「隠れたことを見ておられる父」の報いよりも(同4節)、目に見える人からの称賛と報いを期待していたことが分かる。

 更に、彼らは、虚栄心と高慢という過ちに陥っていたことが指摘されている。彼らは、「宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好」んだ(6~7節)。これはイエス・キリストが、「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい」と教えられたことと全く懸け離れた態度であった(11節)。

 言行不一致、形式化した信仰、虚栄心と高ぶり…これが律法学者やファリサイ派の人々が陥っていた過ちであった。しかし、これらは誰もが陥り易い過ちであり、特に教役者と呼ばれる者にとっては、心に深く刻むべき大事な教訓である。

祈り
 愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの大きな愛と慈しみに包まれ、御前に祈りを献げられることを、心から感謝致します。

 主よ、あなたの御子イエス・キリストは王の王、主の主でいらっしゃるのに、極限まで低められ、卑しめられました。十字架の呪いを受け、陰府の底にまで降って行かれました。高慢な私を救うために。

 主よ、いつも低められたあなたを告白することが出来るよう、この心を治め、導いて下さい。

 この高慢を赦して下さい。どうか謙遜な低い心を与えて下さい。あなたが与えて下さっている働きを全うすることが出来ますように。あなたの子供達に仕えることが出来ますように。

 どうか、今日も恐れと悲しみ、怒り、不安の中にあるお一人お一人の傍にいて、支えて下さい。そして、お一人お一人を力づけて下さいますよう、心からお願い致します。

 感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

西原新生バプテスト教会
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聖書日課 マタイによる福音書22章

聖書日課 マタイによる福音書22章(新共同訳 新約pp.42-44)

「神殿の境内」から商人達を「追い出し」たことで、イエス・キリストに対する「祭司長たち」「律法学者たち」の敵対心と憎しみは、ますます深まっていった。そこで、彼らは、イエス・キリスト「言葉じりをとらえて、罠にかけ」るために、次々と問答を仕掛けてきた(15節)。

 第一の問答は、「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか」というものである(17節)。「適っている」と答えればユダヤ人から非難を受け、「適っていない」と答えれば今度はローマ人から非難を受ける、という巧妙な質問である。イエス・キリストは、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と、それぞれの責任を果たすべきであるとお答えになった(21節)。

 第二の問答は、「復活はないと言っているサドカイ派の人々」が仕掛けてきた(23節)。子供をもうけないまま亡くなった兄弟達の妻となった女性は、復活の時にはどの兄弟の妻になっているのかという質問である(28節)。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」というのがイエス・キリストの答えであった(30節)。

 第三の問答は、「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」というものであった(36節)。律法の専門家の間で意見が分かれていたため、「イエスを試そうとして尋ねた」のである(35節)。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』…『隣人を自分のように愛しなさい』」イエス・キリストはお答えになった(37~38節)。

 最後に、今度はイエス・キリスト自ら、「メシア」ダビデの子」だと言うファリサイ派の人々」に対してこう問いかけられた。

「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい、/わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか」(43~45節)。

「これにはだれ一人、ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった」という言葉でマタイはこの一連の論争を締め括っている(46節)。

 考えてみれば、主なる神の御子と論争してどちらが勝つかは最初から明らかである。にもかかわらず、そう信じようとしない、或いは認めようとしない愚かな人間は、今でも、御子イエス・キリストとの論争を繰り返しているのではないか。イエス・キリストを信頼することに優る賢さはない。

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聖書日課 マタイによる福音書21章

聖書日課 マタイによる福音書21章(新共同訳 新約pp.39-42)

 イエス・キリストがエレサレムに入城された時、人々は大歓迎でイエス・キリストを迎えた(8~9節)。ところが、当のイエス・キリストは、そのような歓迎を喜ぶどころか、「神殿の境内に入」ると、「そこで売り買いをしていた人々」「追い出し」始めた(12節)。そして、深い憤りをもってこう言われた。

「『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている」(13節)。

 当時、神殿には、礼拝で献げる動物を売る商売人が大勢いて、境内の中は、物を売り買いする人々の声が響き渡っていた。献げ物の動物を売ることは、元々遠方から神殿礼拝にやって来る人々の便宜を図るために許可されていたものだった。しかし、それが次第に本筋からずれ、暴利を貪る商売人や、境内の利権を持つ祭司の格好の金儲けの手段と化していた。

 本来、主なる神を礼拝する喜びと讃美の声に満ちている筈の神殿が、人々が物を売り買いする喧騒の場とされてしまっている。主なる神との静かな交わりと祈りの場である筈の神殿が、商売人や祭司の金儲けの場とされている。イエス・キリストの深い憤りの理由はそこにあった。真実の礼拝が妨げられる時、イエス・キリストは深い悲しみを覚えられる。そして、礼拝を妨げているものを激しい憤りをもって追い出される。

 また、イエス・キリストの悲しみと憤りにはもう一つ大切な理由があった。それは、次のイエス・キリストの行動の中に見ることが出来る。

「境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた」(14節)。

 礼拝などそっちのけで商売に走る商売人や、そのような状況を知りながら、我が物顔で神殿を支配する祭司の影で、貧しい人々、弱さの中にある人々が、いつも脇に追いやられ、忘れ去られている。イエス・キリストの激しい憤りの理由はまさにそこにあった。

「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである」…私達の家、私達の生活、私達の教会は、「祈りの家」と呼ばれるに相応しいものとなっているだろうか?

祈り
 愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの大きな愛の御手の中に包んで下さり、御前に引き寄せて下さったことを心から感謝致します。

 主よ、あなたの愛は激しく、そして温かな深い愛でした。あなたがこのような御方だから、私達は癒され、救われました。

 あなたは、今、私達をどのように見ておられるのでしょう。私達の国にどのような思いを抱いておられるのでしょう。

 あなたは、全ての者が大切にされ、癒されること、あなたの祝福を受けること、礼拝者として輝くことを御心となさっていると思います。

 どうか、礼拝から遠ざけられている方々を引き寄せて下さい。真の礼拝を阻害する罪と人の悪意、勝手な取り決めや思い込みを打ち砕いて下さい。一人一人が本当に安心してあなたの傍に近寄り、あなたの御手に触れられ癒されますように。真の礼拝者としてあなたを見上げることが出来ますように。

 主よ、脇に追いやられている方、忘れ去られている方と今日も共にあって下さい。あなたの御子イエス・キリストは、神殿が商売人や祭司の金儲けの場となっていた影で、痛みや悲しみ、不安の中にある人々がいることに憤られ、彼らを癒されました。

 今、私達が出来ることを通して、お一人お一人を支えることが出来ますよう、為すべきことを教えて下さい。それを行わせて下さい。

 感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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