ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 ヨブ記42章

聖書日課 ヨブ記42章(新共同訳 旧約pp.832-833)

 ヨブが得た答え、それは全知「全能」の主の「御旨」は必ず「成就」するということ、そして、人はただ主の御前にひれ伏すのみ、ということであった。ヨブは自分の高ぶりの罪を認め、「塵と灰の上に」ひれ伏して、「悔い改め」た。すると、主なる神はヨブの健康と財産と家族と人間関係の全てを回復し、溢れる祝福で満たして下さった(10~17節)。

「ヨブは主に答えて言った。あなたは全能であり/御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。『これは何者か。知識もないのに/神の経綸を隠そうとするとは。』そのとおりです。わたしには理解できず、わたしの知識を超えた/驚くべき御業をあげつらっておりました。『聞け、わたしが話す。お前に尋ねる、わたしに答えてみよ。』あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し/自分を退け、悔い改めます」(1~6節)。

 自分の意に沿わないことが起こる時、或いは、自分が理解出来ない状況に陥った時、私達は「神様、どうしてこんなことが起こるんですか!」と腹を立てることはないだろうか。事の大きさに違いはあるだろうが、私達は誰でも、ヨブと似たような心境に陥ることがある。そのような時、私達はどうすればよいのだろうか。

 自分の願うような状況であってもなくても、決して主なる神への愛と信頼を失わないこと、それが真の信仰であり、そこに真の平和と祝福の源がある。主なる神は私達にそのことを願っておられる。そして、それこそが、「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか」とサタンが主なる神に挑戦したことだった(ヨブ記1章9節)。

 利益を超えた愛と信頼。それは、私達の罪や弱さや汚れにもかかわらず、私達を愛し、赦し、救うために尊い御子をお献げ下さった父なる神が現された愛である。この愛を受け、この愛に包まれ、この愛に生き続けること、それこそヨブが得た答えだったのではないか。

祈り
 愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日も揺れ動く私達を握って放さないあなたの御手に包まれ、御前に引き出していただいたことを心から感謝致します。

 主よ、私達は多くの「何故?」を抱えながら生きていますが、あなたはその一つ一つにはお答えになりません。寧ろ、あなたが黙って覆い隠して下さっているから、私達は生きることが出来るのだと思います。あなたの深いご配慮とご愛に心から感謝致します。

 主よ、あなたは私達の「何故?」に対して、あなたご自身のご臨在という答えを下さいます。あなたご自身という答えを下さいます。私達に光を照らし、満たして下さいます。そして、謙遜な者として生きることを教えて下さいます。

 あなたは「何故?」を超えさせるものを与えて下さいます。いや、あなたのご臨在によって私達の「何故?」は消えてなくなります。

 主よ、ヨブ記の学びを導いて下さったことを感謝致します。分からないことの多い人生ですが、変わらぬあなたの愛と御守り、あなたの偉大さと御経綸を覚えることが出来ました。

 どうか苦しみの中にある方の上に溢れるあなたの祝福、あなたの解決、あなたの癒しをお与え下さい。

 心から感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

西原新生バプテスト教会
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〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
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聖書日課 ヨブ記41章

聖書日課 ヨブ記41章(新共同訳 旧約pp.831-832)

 主なる神のヨブへの語りかけが続く。前章に続いてここでも主なる神は、伝説の猛獣ベヘモットレビヤタンを取り上げて、「彼を挑発するほど勇猛な者はいまい。いるなら、わたしの前に立て」と挑戦した(2節)。そして、「あえてわたしの前に立つ者があれば/その者には褒美を与えよう。天の下にあるすべてのものはわたしのものだ」と宣言された(3節)。

 勿論、天地を創造した主なる神の御前に立つことが出来る者など一人もいない。これは、主なる神よりも自分が正しいと主張したヨブに、自分の高ぶりに気付かせ、悔い改めて主の御前にひれ伏させるための言葉である。

 ここに登場する伝説の猛獣については、「この地上に、彼を支配する者はいない。彼はおののきを知らぬものとして造られている。驕り高ぶるものすべてを見下し/誇り高い獣すべての上に君臨している」と言われていることから(25~26節)、サタンの存在を暗に示唆していると解釈されることもある。もしそうだとすれば、サタンもまた元々は主なる神によって造られた存在であり、造り主である主なる神の支配の下にあることを物語っているのかも知れない。

 いずれにしても、罪ある人間は、サタンの力の前に無力な者であるが、主なる神は全てのものを造り、全てのものを支配される御方である。その主の前に、人はただひれ伏し、拝み、従うべき存在であることを、ヨブはこの苦難を通してもう一度学び直した。

 いや、苦難を味わったヨブが、再び主なる神からの言葉をいただき、主なる神との交わりを回復した時に学んだ教訓であったと言った方がいいかも知れない。何故なら、人は主なる神の赦しの中でこそ、真に罪を認め、悔い改めることが出来、主なる神の愛に触れてこそ、真に自分を見つめ、ありのままの自分を知ることが出来るのだから。

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」(詩編119編71節)。

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聖書日課 ヨブ記40章

聖書日課 ヨブ記40章(新共同訳 旧約pp.830-831)

 勝敗は呆気なく決まった。自分が受けた苦難について主なる神と言い争おうとしたヨブに対し、主なる神が、天地創造の驚くべき知恵を示され(39章)、「神を責めたてる者よ、答えるがよい」とヨブに挑戦すると(2節)、ヨブは、「どうしてあなたに反論などできましょう」と、即座に自分の過ちを認めて主に降参した。

「ヨブは主に答えて言った。わたしは軽々しくものを申しました。どうしてあなたに反論などできましょう。わたしはこの口に手を置きます。ひと言語りましたが、もう主張いたしません。ふた言申しましたが、もう繰り返しません」(3~5節)。

 この世の知恵者が、何とかヨブに罪を認めさせようと、言葉を尽くしてその知恵を説き聞かせた時には、ヨブはその説得を一切受け入れようとはしなかった。にもかかわらず、一度主なる神が語るやいなや、彼は即座にその言葉を受け入れ、主の御前にひれ伏した。

 人の知恵や言葉ではなく、主なる神の知恵と言葉だけが、人に罪を示して魂の奥底からの悔い改めへと導く。日々主なる神と向き合い、主の御声に耳を傾け、主の御言葉を心に受けとめることの大切さが分かる。

 それでもまだ主なる神のヨブに対する厳しい語りかけは続いた。15節以降で、主なる神は、伝説の猛獣と言われるベヘモットレビヤタンについて語り(15~24節、25~32節)、誰がこれらの猛獣を自在に操り、その力に勝ることが出来るだろうかと問いかけた。それは、主なる神によって造られた猛獣にさえ勝つことが出来ないヨブに、自分が主なる神に造られた者に過ぎないことを思い知らせ、造られた者が造り主と争おうとした過ちを示すためであった。

 先に、主なる神は、天地創造の知恵を示してヨブの知的高慢を打ち砕かれた(39章)。ここでは主なる神の創造の力を示して人間の無力さを教え、自分を主なる神と対等の位置に置こうとしたヨブの高ぶりを打ち砕かれた。

 徹底的な罪の自覚と悔い改めが求められていた。

「主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます」(ヤコブの手紙4章10節)。

祈り

 愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたえます。今日もあなたの憐れみ、慈しみの中に握り、御前に引き出して下さったことを心から感謝致します。

 主よ、あなたが厳しい方であるから、私達はあなたに信頼することが出来ます。主よ、あなたが慈しみに富む方であるから、私達はあなたの中で休むことが出来ます。

 高慢を打ち砕いて下さり、神の子の尊厳に満たして下さるあなたに感謝を献げます。あなたが、このような者の主となって下さる。何と幸いなことでしょう。あなたこそ王の王、主の主です。主よ、あなたの御前にひれ伏します。

 どうか日々教えて下さい。日々あなたの威光と力、尊厳と誉れをほめたたえさせて下さい。日々謙遜を学ぶことが出来ますように。

 今日も尊いあなたの子供達の上に、あなたの祝福を注いで下さい。厳しさと慈しみの中にお一人お一人を支え、導いて下さい。お一人お一人を守り、癒して下さいますように。

 心から感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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聖書日課 ヨブ記39章

聖書日課 ヨブ記39章(新共同訳 旧約pp.828-830)

 前章で「わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ」とヨブに迫った主なる神は(38章3節)、続いて、天と地におけるご自身の創造の御業をヨブに示しながら、「知っていたというなら/理解していることを言ってみよ」と問いかけた(同4節)。

「大地」「海」を創造され(同4~11節)、太陽を昇らせて光を照らされる主は(同12~15節)、世界を「隅々まで」知っておられ(同16~21節)、天候を治め(同22~30節)、天の星座の運行を支配される御方である(同31~38節)。

 また、主なる神は、動物の世界をも治められる御方であり(同39~41節)、その生態を知り、出産を見守り、獅子、烏、山羊、鹿、ろば、野牛、駝鳥、馬、鳥など、全ての動物に自由を与え、力を与え、その成長を見守られる御方である。

「お前は岩場の山羊が子を産む時を知っているか。雌鹿の産みの苦しみを見守ることができるか。月が満ちるのを数え/産むべき時を知ることができるか。雌鹿はうずくまって産み/子を送り出す。その子らは強くなり、野で育ち/出ていくと、もう帰ってこない。誰が野生のろばに自由を与え/野ろばを解き放ってやったのか。その住みかとして荒れ地を与え/ねぐらとして不毛の地を与えたのはわたしだ。彼らは町の雑踏を笑い/追い使う者の呼び声に従うことなく/餌を求めて山々を駆け巡り/緑の草はないかと探す」(1~8節)。

 天を見上げる時、私達はその広大さと不思議さに圧倒され、恐れと畏敬の念を覚える。また、地上の自然に目を留める時、その緻密さと美しさに、驚きと感動を覚える。

 科学が発展したとはいえ、私達は、宇宙と自然界の全てを知り尽くしたとは、到底言うことは出来ない。いや、寧ろ知れば知るほど、その神秘さと緻密さと美しさに、主なる神への恐れと畏敬の念、そして、主なる神の御業に対する驚きと感動の思いを抱くようになるのではないか。

 主なる神が願っていたことは、そういう驚きと感動、畏れと敬いの心を、ヨブの中に再び湧き上がらせることであったに違いない。

「ただひとり/驚くべき大きな御業を行う方に感謝せよ。慈しみはとこしえに。英知をもって天を造った方に感謝せよ。慈しみはとこしえに」(詩編136編4節)。

祈り

 愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの慈しみの中にこの罪深い者を置き、憐れんで御前に引き出して下さったことを心から感謝致します。

 主よ、山羊や鹿が生まれるのを見守っておられるあなたは、私が生まれた時も見守って下さっていました。そして、罪に倒れ、罪の中に死んでいた者の中に神の子の実存を生まれさせて下さいました。

 主よ、あなたは生きておられます。私を握って下さっています。どうか、この心の暗闇の隅々にあなたの光を照らして下さい。

 苦しみの中にある方、痛みと悩みの中にある方が、あなたの温かな目を知ることが出来ますように。見守り、支えておられるあなたの御手を知ることが出来ますように。

 心から感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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聖書日課 ヨブ記38章

聖書日課 ヨブ記38章(新共同訳 旧約pp.826-828)

 遂に、主なる神が沈黙を破り、ヨブに答えられた。ヨブにとっては、待って、待って、待ち続けた末の答えである。しかし、その言葉は、決して甘く優しいものではなかった。寧ろ、非常に厳しくヨブの過ちを指摘する内容であった。それは、主なる神に対するヨブの高ぶりを批判する言葉だった。

「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて/神の経綸を暗くするとは。男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。わたしが大地を据えたとき/お前はどこにいたのか。知っていたというなら/理解していることを言ってみよ」(1~4節)。

 そういう点では、この主なる神の言葉は、これまでエリフがヨブに対して言ってきたことと同じと言える。しかし、主なる神がエリフと全く同じお考えであったわけではない。主なる神は、あくまでもヨブを「わたしの僕」として信頼しておられ(1章8節)、ヨブの受けた苦難は、ヨブが主の僕であるからこそ与えられたものだった。エリフにはこのことが分からなかった。

 それにしても、漸く答えを貰えたヨブにとって、この主なる神の答えは満足出来るものだったのだろうか。それは、ヨブの願いと求めに十分応えてくれるものだったのだろうか。そこでヨブが求めていたものが何であったかを確認する必要があるだろう。

 ヨブが真に求めたもの、それは主なる神ご自身であった。彼は主なる神の臨在を求め、交わりを求め、その語りかけを必死に求めていた。ヨブは、身に覚えのない苦難を受け、その意味を主なる神に問いかけた。しかし、ヨブの必死の求めにもかかわらず、主なる神は答えて下さらなかった。この主なる神の沈黙は、主の僕として主なる神との親しい交わりの中に生きてきたヨブを、更に深く苦しめることになった。ヨブにとって主なる神との交わりは、人生の基盤であり、意味であり、目的そのものだったからである。

 それ故、たとえ厳しい言葉であっても、主なる神の語りかけは、ヨブにとって大きな喜びであり、待ちに待った救いとなったに違いない。主なる神との交わり、そこにヨブの最大の求めと救いがあったのだから。

「神と共にあってわたしの家は確かに立つ。神は永遠の契約をわたしに賜る/すべてに整い、守られるべき契約を。わたしの救い、わたしの喜びを/すべて神は芽生えさせてくださる」(サムエル記下23章5節)。

祈り
 愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日も溢れる恵みと慈しみによって包み、御前に引き出して下さったことを心から感謝致します。

 主よ、自己憐憫と不平不満に満たされ、「経綸を暗くする」私をお赦し下さい。何も知らないのに、何かを知っているかのように振る舞い、高慢になる私をお赦し下さい。

 主よ、あなたはこのような私を御前に引き出し、声をかけて下さいました。あなたに何も答えられなくても、あなたの御顔の光を照らしていただくと、この心の中に蠢く全てのものが消えてなくなります。あなたが満たして下さるからです。あなたは、このような私の中にも正しい心、清い心を作って下さいます。あなたが声をかけて下されば、塵の中にいる者も、勇士のように「腰に帯を」締めて立ち上がることが出来ます。

 あなたは、ヨブの罪を暴かず、ご質問によってヨブの心を正されました。主よ、あなたに信頼する者は幸いです。

 どうか、苦しみの中にある方お一人お一人にあなたの声をかけて下さい。お一人お一人を御前に引き出して下さい。心の中にある全てのものにあなたの光を照らし、お一人お一人を神の子、光の子の尊厳で満たして下さいますよう、心からお願い致します。

 感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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聖書日課 ヨブ記37章

聖書日課 ヨブ記37章(新共同訳 旧約pp.824-826)

 エリフの長い発言が終わった。エリフは、終始一貫して、ヨブが主なる神よりも自分を正しいとするところに高ぶりの罪があると指摘し続けた。

「ヨブよ、耳を傾け/神の驚くべき御業について、よく考えよ。あなたは知っているか/どのように神が指図して/密雲の中から稲妻を輝かせるかを。あなたは知っているか/完全な知識を持つ方が/垂れこめる雨雲によって/驚くべき御業を果たされることを。南風が吹いて大地が黙すときには/あなたの衣すら熱くなるというのに/鋳て造った鏡のような堅い大空を/あなたは、神と共に/固めることができるとでもいうのか」(14~17節)。

 主なる神は、「知識」においても「力」においても人間を超越した御方であり、人は主なる神の御前に何もなしえない。それなのに、ヨブは、自分の受けている苦難について沈黙される主なる神に対し、自分の正しさを訴え、それに答えようとされない主なる神は間違っていると主張した。

 これに対しエリフは、悩みも苦しみも、全て起こっている出来事の中には意味があり、主なる神のメッセージが込められていると言った。ヨブは主なる神に対して高ぶっており、主なる神のメッセージを受けとめて悔い改め、主なる神に立ち帰らなければならないと迫った。

 これにはヨブも耳を傾けずにはおれなかった。しかし、ヨブの苦難は、ヨブの高ぶりを指摘するために起こったのではない。寧ろヨブは、苦難が起こったから主なる神にその答えを求めて訴えていた。エリフには、それが分からなかった。そこにエリフの限界があった。

 しかし、エリフの言葉を読んでいると、彼が自分の考えの限界に気付いている様子は全くない。それ故、ヨブに対する彼の批判は、ますます厳しくなっていった。エリフは、主なる神がヨブに与えた苦難の意味を、自分の理論に当てはめてしまっている点で、主なる神に対する決めつけと誤解という間違いを犯していたと言えるだろう。

 結局、主なる神の言葉を待つ以外に道はない。これまでの議論は、そのことを知るために必要な時間だったのかも知れない。

イスラエルよ、聞け。今日、わたしは掟と法を語り聞かせる。あなたたちはこれを学び、忠実に守りなさい」(申命記5章1節)。

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聖書日課 ヨブ記36章

聖書日課 ヨブ記36章(新共同訳 旧約pp.823-824)

 エリフは、主なる神についての自分の確信を語り続けた。その確信とは、主なる神は悩みや苦しみを通して人間に語って下さるということである。

 つまり、エリフは、ヨブの受けている「苦難」には、主なる神からヨブへのメッセージが込められていると考えていた。それは、ヨブに自分の間違いを気付かせ、悔い改めへと導いて、彼を救い出すためのメッセージだというのである。

 その点で、エリフはヨブの3人の友人達と立場を異にしていた。3人の友人達は、ヨブの苦難を彼自身の罪に対する主なる神の裁きと見ていた。それに対し、エリフは、「苦難」を主なる神からのメッセージと見て、そこにヨブを「救い出」そうとする主なる神の恵みと憐れみを見ていた。

「神は貧しい人をその貧苦を通して救い出し/苦悩の中で耳を開いてくださる。神はあなたにも/苦難の中から出ようとする気持を与え/苦難に代えて広い所でくつろがせ/あなたのために食卓を整え/豊かな食べ物を備えてくださるのだ。あなたが罪人の受ける刑に服するなら/裁きの正しさが保たれるだろう」(15~17節)。

 この違いは、ヨブに大きな影響があったようである。3人の友人達に対し、ヨブは激しい議論を交わした。しかし、エリフに対しては、ヨブは一言も反論したり言い返したりしていない。それは、ヨブの苦難をヨブの罪のせいにしていないことに対する自然な反応だったことだろう。或いは、苦難の向こうに主なる神の恵みと憐れみを見ていたことへの反応でもあったかも知れない。

 しかし、それは、エリフがヨブの立場を理解し、ヨブの側に立っていたということではない。エリフは、あくまでも主なる神についての自分の確信に立って語っていたからである。

 いずれにしても、人の語る言葉の影響は私達が考える以上に大きいことを心に留めたい。

「柔らかな応答は憤りを静め/傷つける言葉は怒りをあおる。知恵ある人の舌は知識を明らかに示し/愚か者の口は無知を注ぎ出す」(箴言15章1~2節)。

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聖書日課 ヨブ記35章

聖書日課 ヨブ記35章(新共同訳 旧約pp.822-823)

 エリフは、引き続き、主なる神に対するヨブの高ぶった態度を指摘し、そこに過ちがあると批判した(2節)。そして、主なる神は超越的な方であり、人間が「正しく」ても間違っていても、それによって影響を受けるような方ではなく、ヨブが自分を主なる神よりも正しいと主張するのは高慢であると言った(6~7節)。

 このエリフの意見には、確かに傾聴すべき内容がある。この時、ヨブは、自分の苦しみと自分の立場に固執する余り、自分の義を主なる神の義以上のものとしてしまっていたからである。

 この時ヨブは、黙ってエリフの言葉を聞き続けていた。もしかしたら、ヨブもエリフの言葉を聞きながら、彼の意見には一理あることを感じていたのかも知れない。

 しかし、エリフにも、やはり行き過ぎと誤解があった。9節以降で、エリフは、苦しみの中で「助けを求める」者は、ただ苦しみを取り除いてもらいたいだけで、真に主なる神を求めているのではないと言っている。それ故、主なる神は彼らの求めに「答えてくださらない」というのである。

「抑圧が激しくなれば人は叫びをあげ/権力者の腕にひしがれて、助けを求める。しかし、だれも言わない/『どこにいますのか、わたしの造り主なる神/夜、歌を与える方/地の獣によって教え/空の鳥によって知恵を授ける方は』と。だから、叫んでも答えてくださらないのだ。悪者が高慢にふるまうからだ。神は偽りを聞かれず/全能者はそれを顧みられない。あなたは神を見ることができないと言うが/あなたの訴えは御前にある。あなたは神を待つべきなのだ」(9~14節)。

 確かにそういう人々がいるのは事実である。しかし、エリフは、ヨブのことをそう言っている。ここにエリフの誤解があった。何故なら、ヨブが真に求めていたのは、主なる神ご自身だったからである。主の僕であるヨブは、主なる神との親しい交わりの中に生きて来た。エリフには、それが分からなかった。エリフは、そういう主なる神との交わりがあることを知らなかったのではないか。

「わたしは、神に近くあることを幸いとし/主なる神に避けどころを置く。わたしは御業をことごとく語り伝えよう」(詩編73編28節)。

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聖書日課 ヨブ記34章

聖書日課 ヨブ記34章(新共同訳 旧約pp.820-822)

 エリフは続いてヨブの過ちを指摘した。ヨブが、主なる神よりも自分の方が正しいと主張したことに対して、その過ちを非難したのである。

「ヨブはこう言っている。『わたしは正しい。だが神は、この主張を退けられる。わたしは正しいのに、うそつきとされ/罪もないのに、矢を射かけられて傷ついた。』ヨブのような男がいるだろうか。水に代えて嘲りで喉をうるおし/悪を行う者にくみし/神に逆らう者と共に歩む。『神に喜ばれようとしても/何の益もない』と彼は言っている」(5~9節)。

 しかし、7~9節にあるようなことをヨブが語ったり行ったりしたことはない。ヨブに対するエリフの怒りが、こういう誇張した表現をさせてしまったのだと思われる。しかし、それは、エリフがヨブの立場に立って物事を判断していないことを表している。更に言えば、エリフがヨブに対抗的な立場に立っていることの表れと考えることが出来る。

 これでは、どんなに論じ合ったとしても、理解し合うことは不可能に違いない。互いに自分の正しさを主張するばかりでは、いつまで経っても折り合いをつけることは出来ない。相手の立場に立たない限り、互いの間に共通理解を得ることは出来ない。ヨブと3人の友人達は、そのことを悟ったのかも知れない。その点では、エリフよりも彼らの方が一歩進んでいたと言える。

 しかし、どちらにしても、答えは見えないままである。ヨブも、3人の友人達も、そしてエリフも、それぞれ自分の信じる立場から懸命に考え、議論した。しかし、ヨブの苦難の意味は見出せないまま、そして、彼らの間に共通の認識は得られないままだった。

 ヨブが友人達に求めていたことは、苦難の意味を教えてもらうことではなかった。それが無理であることはヨブ自身もよく分かっていただろう。ヨブはただ、自分の苦しみを受けとめ、その苦しみの中に共にいてくれることを友人達に願っていたに違いない。

 理解ではなく受けとめること、理屈ではなく共にいること、それが人を慰め癒す。しかし、口で言うのは簡単だが、実際に行うのは難しい。それには或る種の覚悟が必要だからである。その意味で「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われたイエス・キリストには(マタイによる福音書28章20節)、その覚悟があったに違いない。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピの信徒への手紙2章6~8節)。

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聖書日課 ヨブ記33章

聖書日課 ヨブ記33章(新共同訳 旧約pp.818-819)

「ここにあなたの過ちがある」…主なる神よりも自分の方が正しいと主張するヨブに対し、エリフはその間違いを厳しく指摘した。「神は人間よりも強くいます」…それ故、ヨブのように「神と争おうとする」ことは間違っているというのである。

「ここにあなたの過ちがある、と言おう。神は人間よりも強くいます。なぜ、あなたは神と争おうとするのか。神はそのなさることを/いちいち説明されない」(12~13節)。

 主なる神が偉大な方であることはヨブも認めていた。しかし、自分が受けている苦難について主なる神が何も答えて下さらないことに苛立ち、それは契約違反であると主張した。しかし、エリフは、主なる神は語っておられるというのです。

「神は一つのことによって語られ/また、二つのことによって語られるが/人はそれに気がつかない。人が深い眠りに包まれ、横たわって眠ると/夢の中で、夜の幻の中で/神は人の耳を開き/懲らしめの言葉を封じ込められる。人が行いを改め、誇りを抑え/こうして、その魂が滅亡を免れ/命が死の川を渡らずに済むようにされる」(14~18節)。

 主なる神は、「夢」「幻の中で」、或いは病や苦難を通して語られる。それは、人が自分の過ちに気付き、罪を悔い改めて死を免れるために、主なる神が与えて下さるメッセージであるとエリフは言う。

 このように、ヨブの苦難に対するエリフの理解は、主なる神がそれを通してヨブが知るべき何かを語られているというものであった。この点、エリフの考えは、因果応報の原理によって苦難をヨブの罪に対する罰とする3人の友人達とは確かに違っていた。では、ヨブが知るべきこととは何か。それはヨブの高ぶりであり、主なる神よりも自分を正しいとする傲慢な態度だというのである。

 エリフの考え方には学ぶべき点がある。あらゆることの中に主なる神からのメッセージを聞き取り、学ぼうとするのは、確かに大切なことだからである。しかし、ヨブの苦難の理由がそのためではなかったことは、1章で明らかに記されている。主なる神はヨブを「わたしの僕」と呼んで信頼しておられた(1章8節)。それ故、ここにも人間の知恵の限界が示されている。

「自分自身を知恵ある者と見るな。主を畏れ、悪を避けよ。そうすれば、あなたの筋肉は柔軟になり/あなたの骨は潤されるであろう」(箴言3章7~8節)。

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