ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 ダニエル書3章1~12節

聖書日課 ダニエル書3章1~12節(新共同訳 旧約pp.1383-1384)

要約
 ネブカドネツァル王が金の像を造り、ドラの平野に建てたす。全高官を除幕式に出席させ、楽器の音が聞こえたら、金の像を拝むように命じた。シャドラク、メシャク、アベド・ネゴが拝まないので、カルデア人が王に訴えた。

(1) 金の像の除幕式(1~7節)

 先立って、ネブカドネツァル王は、ダニエルの神は「すべての王の主」であると告白した(2章47節)。しかし、その告白は唇だけの告白に過ぎなかった。王は主なる神がダニエルを通して行われたことを忘れ、偶像を作って礼拝する、世の風習に戻ってしまった。ネブカドネツァル王は、「ドラという平野」「金の像」を建てて「除幕式」を執り行い、各種の「楽器による音楽が聞こえた」時、「金の像の前にひれ伏して拝」むように命じた。そうしなければ、「直ちに燃え盛る炉の中に投げ込まれる」と厳命を下した。王の命令を恐れた「諸国、諸族、諸言語の人々」は、「金の像」の前にひれ伏して「拝んだ」。主なる神の御力を一度経験したからといって信仰の人になるわけではない。信仰は、主なる神の御言葉に耳を傾けて従い続ける者に与えられるものである。

 信仰の試みが生じた時、どうしますか。あなたの信仰を嘲笑う人々を憐れみ、その人を愛によって抱いて祈りますか。

(2) 訴えられる3人の少年(8~12節)

 信仰を守ろうとすれば、世の人々の訴えと「中傷」を受けることがある。しかし、神の国を見上げ、義のために迫害される人は幸いである。シャドラク、メシャク、アベド・ネゴが除幕式で「金の像を拝もうとし」ないと、カルデア人が王に彼らを訴えた。カルデア人は、ユダヤ人の捕虜が高官に就いたことを妬ましく思っていたのである。3人は、「金の像」を拝まなければ「燃え盛る炉に投げ込まれる」ということを知りながらも、拝まなかった。彼らは「バビロン州」を司る権力の座に就いていたが、主なる神への信仰を捨てなかった。この世で神の国の民として信仰を守って生きるのは決して易しいことではない。しかし主なる神は、信仰を守るために苦難をも厭わない聖徒を尊く扱って下さる。

 この世と適当に妥協して信仰を捨てたことはありませんか。神の子供として信仰を守って生きるために、どんな代価を払いますか。

祈り
 一切の不純物が混ざることなく、きよく生きることを願います。迫害や誘惑、困難が伴うとしても、世のものを拒み、ただひたむきに主に従う者となることが出来ますように。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119

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聖書日課 エゼキエル書45章

聖書日課 エゼキエル書45章(新共同訳 旧約pp.1371-1373)

 本章には、エゼキエルが見た新しいイスラエルにおける生活の規定が記されている。

 その第一は、土地の割り当てに際して、まず「土地の一部を聖なる献げ物として主にささげねばならない」というものである(1節)。これは、各部族に分配した後の残りの土地ではいけないということでもある。

 祈りにおいても、礼拝においても、献金においても、私達は一番初めに、主に献げるべきものを取り分ける姿勢が大切ではないだろうか。余ったら献げよう、時間があれば祈ろう、他に用事がなければ礼拝に行こうというのでは、結局祈りも礼拝も献金も出来ないだろうし、出来たとしても殆ど意味のないものとなってしまう。何故なら、主なる神は私達の心を見る御方だからである。主なる神を何よりも第一とする心を、主は喜ばれる。

 次に、9~10節では、イスラエルの君主たち」に対して、「不法と強奪をやめ」「正義と恵みの業を行」うこと、正確な度量衡を用いることが勧告されている。そのために、君主には広大な土地があてがわれ、民を追い立てたり、虐げたりしなくても必要が満たされるように配慮された。主なる神は必要の全てを豊かに満たして下さる方であることが示されている。

 13節以降には、献げ物についての規定が記されている。それによると、イスラエル「すべての民」は自分達の「君主」に対して献げ物をささげ、「君主」「すべての祝日」イスラエルの民のために献げ物をささげるよう命じられている。そして、こう言われている。

「君主はこの日、自分自身のため、また、国のすべての民のために、贖罪の献げ物の雄牛をささげねばならない」(22節)。

 民は君主に自分達の分を果たし、君主も全ての民のためにその役目を果たす。それによって正義と恵みに満ちた国が建て上げられる。その土台は「贖罪」、即ち、罪の赦しと清めにある。

 主なる神を第一とすること、主なる神の満たしに信頼すること、そして、自分の分(献げ物)を果たすこと、そこから神の民の新たな祝福の生活が始まる。

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聖書日課 エゼキエル書44章

聖書日課 エゼキエル書44章(新共同訳 旧約pp.1369-1371)

 新しい神殿における祭司の務めについて記されている章である。祭司は、神殿での礼拝を導き、献げ物をささげ、そうして主なる神と人の交わりを結び、回復する役目を果たす人々だった。それらの中でも、特に大切な務めが23節に教えられている。

「彼らは、わたしの民に聖と俗の区別を示し、また、汚れたものと清いものの区別を教えねばならない」(23節)。

「聖と俗」「汚れたものと清いものの区別」とはどういうことだろうか。それは単に衛生上のことではなく、また儀式的なことでもない。最も大切なことは、主なる神の御言葉に従っているかどうかということにあった。つまり、主なる神の御言葉に聞き従うこと、それが「聖と俗」、汚れと清さの基準である。

 それはまた、主なる神との交わりの中にいるかどうかということを意味していた。主なる神を愛し、信頼し、いつも主なる神の恵みと愛のもとにい続けること、それが真に自分を清く保つ道であり、聖なる者として生きることである。

 祭司は他の部族のように自分の土地を持つことはなかった。それは、「わたしが彼らの嗣業である」とあるように(28節)、この世の土地ではなく、主なる神ご自身が彼らの財産となって下さったからである。

 主なる神だけに頼り、主なる神との繋がりと交わりの中に生きる祭司は、この世のものに頼る道を一切断ち切ることが求められた。勿論、それはこの世と一切関わりを持たないということではない。この世の中にあって、主なる神を第一として生きること、即ち、移り行くこの世のものによって振り回されずに、常に主なる神を見上げ、主なる神に拠り頼んで生きることである。その時、主なる神は私達の人生を最良のもので満たして下さる。

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聖書日課 エゼキエル書43章

聖書日課 エゼキエル書43章(新共同訳 旧約pp.1367-1369)

「神殿」は単なる建物ではない。神殿が神殿である所以は、そこに主なる神がいまし、「主の栄光」が満ちているかどうかにある。たとえどんなに荘厳な建物であっても、どんなに多くの人がいたとしても、そこに「主の栄光」が満ちていなければ神殿ではない。

「主の栄光は、東の方に向いている門から神殿の中に入った。霊はわたしを引き上げ、内庭に導いた。見よ、主の栄光が神殿を満たしていた」(4~5節)。

 これは現在の教会でも同じである。教会は、建物ではなく、主イエス・キリストを信じて救われた者の交わりである。そして、その交わりの中に「主の栄光」が満ちているところ、それがキリストの体である真の教会の姿である。

 建物の立派さや大きさは関係ない。人の多さや少なさということとも違う。どんなに人が沢山いても、そこに「主の栄光」が満ちていなければ、単なる人の集いでしかない。また、どんなに人が少なくても、そこに「主の栄光」が満ち溢れるなら、それが真の教会である。では、何がその違いを生み出すのだろうか。

 かつてモーセが幕屋を建てた時、「主の栄光が幕屋に満ちた」ために、モーセは臨在の幕屋に入ることができなかった」と記されている(出エジプト記40章34~35節)。それは、主なる神が命じられた通りに、彼らが幕屋を建設したからである。

 同様に、教会は人間の思いや考えによって築かれるものではなく、主なる神の御心によって建てられるものである。私達が主なる神の導きを求め、主なる神の御教えに従って生きる時、教会の交わりの中に「主の栄光」が満ち溢れる。

 使徒言行録に記されているように、教会は、人々に聖霊が注がれることによって誕生し、聖霊の導きに従った人々によって建て上げられていった。イエス・キリストの弟子達の信仰と従順があったので、そこに「主の栄光」が満ち溢れた。主の御声に聴き従うこと、そこに「主の栄光」が現される。

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聖書日課 エゼキエル書42章

聖書日課 エゼキエル書42章(新共同訳 旧約pp.1366-1367)

 エゼキエルが見た神殿の北側と南側には、「神聖な部屋」と言われる所があった。そこは「主に近づく祭司たちが最も神聖なものを食べる」場所であり、穀物の献げ物、贖罪の献げ物、賠償の献げ物」など、「最も神聖なもの」が置かれている所であった(13節)。

 旧約時代、祭司は特別に選ばれた人々の務めであった。彼らは、神殿で主なる神に仕える者であり、献げ物をささげることを通して主なる神と人の間の交わりを築いていく役目を果たしていた。その役目を果たすために、祭司は、神聖な場所で、神聖なものを食べることが必要だった。

 しかし、新約時代の今、祭司の務めと役割は特別の人々のものではなくなった。これは〈万人祭司〉と言われる教えで、イエス・キリストによって罪を赦され救われた全ての人が、祭司として、礼拝を通して讃美と感謝をささげ、自分自身をささげて、主の御心に従い、主と共に、主に喜ばれる者として生き、それによって、この世界に主なる神の栄光を現し、世の人々にイエス・キリストによる赦しと救いをもたらす使命を果たす者とされた。

 しかし、たとえ万人が祭司となったとしても、祭司に神聖な部屋と、神聖な食べ物が必要なことに変わりはない。そのために、主なる神は、祈りと御言葉、そして教会の交わりを供えて下さった。

「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」(マタイによる福音書6章6節)。

「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです」(テモテへの手紙二3章16~17節)。

「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイによる福音書18章19~20節)。

 神聖な交わりの中で、祈りと御言葉という聖なるものを食し続ける者でありたい。

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聖書日課 エゼキエル書41章

聖書日課 エゼキエル書41章(新共同訳 旧約pp.1364-1366)

 前章に続いて、エゼキエルが見た新しい神殿の幻について記されている。その記述は非常に詳細かつ克明である。それはソロモン王が建てた神殿とほぼ同等の立派な神殿である。

「彼はわたしを拝殿に連れて行った。まず、脇柱を測ると、こちら側の幅は六アンマ、あちら側の幅も六アンマであった。これが脇柱の幅である。入り口の幅は十アンマ、入り口の両側の壁の幅はこちら側が五アンマ、あちら側も五アンマであった。拝殿の奥行きを測ると四十アンマ、その横幅は二十アンマであった」(1~2節)。

 ここから、主なる神の示しは漠然としたものではなく、とてもはっきりしたものであることが分かる。人間の脳は、実際に見たかのように具体的でリアルなイメージを浮かべると、それを現実と実感してしまうと言われているが、主なる神が下さる幻は、必ず現実となって現れてくる。明確なヴィジョンを持つことの大切さを教えられる。

 また、主の神殿は、主なる神が下さる幻に従って造られるべきものであった。それは人間の思いつきや想像力から生まれるようなものではない。主の御計画に基づいて建てられるべきものであった。

 にもかかわらず、私達は自分の思いや考えによって神殿を建てるようなことがある。主なる神に聞き従うよりも、自分の方法や力によって事をなそうとしてしまう。けれども、それは決して上手くいくことはない。

 アブラハムとサラがそうだった。彼らは主なる神が子供を与えて下さるという約束を待ち切れず、勝手に側女によって子供を作ってしまった。それはアブラハム一家に、深い確執と争いをもたらす原因になってしまった。

 また、イスラエルの初代の王となったサウルは、ペリシテ人との戦いのためにいけにえを献げようとした。しかし、祭司サムエルの到着が遅れたため、自分で献げ物をささげてしまった。これもまた、自分のやり方で事を進めようとする傲慢と不従順の罪だった。後にサムエルは言った。

「見よ、聞き従うことはいけにえにまさり/耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる」(サムエル記上15章22節)。

 あなたは主の幻をはっきりと見ているだろうか。そして、その幻のままに、その幻に従って生きているだろうか。

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聖書日課 エゼキエル書40章

聖書日課 エゼキエル書40章(新共同訳 旧約pp.1362-1364)

 エルサレム「破壊されてから十四年」の年月が過ぎた。荒れ果てた都は見る影もなく、崩壊した神殿も放置されたまま、吹きすさぶ風の音だけが空しく響き渡っていた。

 このような状況の中で、一体誰が神殿の再建など考えることが出来るだろうか? エゼキエルが新しい神殿の「幻」を見たのは、そのような時代のそのような状況の中だった。

「我々が捕囚になってから二十五年、都が破壊されてから十四年目、その年の初めの月の十日、まさにその日に、主の手がわたしに臨み、わたしをそこへ連れて行った。神の幻によって、わたしはイスラエルの地に伴われ、非常に高い山の上に下ろされた。その南側に都のように建設された物があった。主がわたしをそこへ連れて行くと、その姿が青銅のように輝いている一人の人が門の傍らに立っており、手には麻縄と測り竿を持っていた。その人はわたしに向かって言った。『人の子よ、自分の目で見、自分の耳で聞き、わたしがこれから示す、すべてのことを心に留めなさい。あなたがここに連れて来られたのは、それを示すためです。あなたが見ることを、すべてイスラエルの家に告げなさい』」(1~4節)。

 教会が誕生した五旬祭の日に、使徒ペトロは多くの人々に向かってヨエル書の言葉を語った。

「神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る」(使徒言行録2章17節)。

 主なる神は、信じる者に「幻」「夢」を見させることによって事を起こされる。聖霊が私達の内に注がれる時、私達は思いも寄らないような素晴らしいヴィジョンを見る者と変えられる。

 五旬祭の日に聖霊を注がれて他国の言葉で語りだした人々の内にも、きっと全世界に主なる神の福音と救いが宣べ伝えられていく「幻」が見えていたに違いない。そして、その「幻」は、やがて彼らを通して確かに実現していった。

 たとえ今の状況はどうであれ、御言葉と祈りを通して主が与えられる「幻」を見、主が下さる「夢」を見続けるならば、その「幻」「夢」は必ず成就する日がやって来る。あなたには、主の「幻」「夢」が見えているだろうか。その「幻」「夢」によって、あなたの心は燃えているだろうか。

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聖書日課 エゼキエル書39章

聖書日課 エゼキエル書39章(新共同訳 旧約pp.1360-1362)

 本章では、終わりの日に「ゴグ」が世界中の悪を結集してイスラエルに攻め上って来るけれど、主なる神の手によって滅ぼされ、遂にイスラエルに真の平和が訪れることが預言されている。

「それゆえ、主なる神はこう言われる。今やわたしはヤコブの繁栄を回復し、イスラエルの全家をわが聖なる名のゆえに熱い思いをもって憐れむ。彼らは自分の土地に安らかに住み、脅かす者がいなくなるとき、わたしに背いた恥とすべての不信の罪の責めを担う。わたしが彼らを諸国の民の中から帰らせ、敵の地から集めるとき、わたしは国々の前で、彼らを通して自分の聖なることを示す」(25~27節)。

 ゴグがイスラエルに攻め上ることも、彼らが滅び去ることも、全ては主なる神の御計画によってなされたことであり、彼らは主なる神の道具として用いられたに過ぎない。それは神の民イスラエル「不信の罪」を裁いて、彼らを本来の姿に立ち帰らせるための計画だった。

 ところが、ゴグとその仲間は、自分達の知恵と力を誇り、傲慢になって、思うがままを行った。そのため、彼らは結局滅ぼされてしまった。それは、北イスラエル王国を滅ぼしたアッシリアや南ユダ王国を滅ぼしたバビロンと同じである。彼らもまた、その傲慢と罪の故に滅び去っていった。

 イスラエルが滅ぼされてバビロンに捕囚として捕らえ移されたのは、彼らの「不信の罪」の故だった。彼らは主なる神の教えに背き、主なる神から離れて偶像に仕え、弱者を虐げ、自分の欲望のままに歩んだ。しかし、主なる神は決して彼らを見捨てられなかった。主なる神は彼らを懲らしめ、その傲慢を打ち砕いて清め、彼らの不信仰と不義を赦して、再び神の民として立たせて下さった。

 旧約聖書に記されている歴史は、神の民イスラエルの不信の歴史であり、主なる神の赦しの歴史である。しかし、それは私達の歴史でもある。私達の不義と不信の罪を、どこまでも赦して下さる主なる神がおられる。そのことの故に私達は今こうして生きている。いや、生かされている。それは、私達によって主なる神の愛と聖がこの世に示されるためである。

「…『そのとき、彼らはわたしが彼らの神、主であることを知るようになる。わたしは二度とわが顔を彼らに隠すことなく、わが霊をイスラエルの家に注ぐ』と主なる神は言われる」(28~29節)。

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聖書日課 エゼキエル書38章

聖書日課 エゼキエル書38章(新共同訳 旧約pp.1359-1360)

 38~39章では、「ゴグ」を中心とする大軍団が、「安らかに暮らしている」イスラエルに総攻撃をかけてくるということが言われている。それは、ヨハネの黙示録20章にも預言されている、終わりの日に起こる出来事のことと思われる。

「それゆえ、人の子よ、ゴグに対して預言して言いなさい。主なる神はこう言われる。わが民イスラエルが安らかに暮らしているとき、お前はいきり立つのか。お前は北の果ての自分の所から、多くの民を伴って来る。彼らは皆、馬に乗っている大集団、大軍団だ。お前はわが民イスラエルに向かって、地を覆う雲のように上って来る。そのことは、終わりの日に起こる。わたしはお前を、わたしの地に連れて来る。それは、ゴグよ、わたしが国々の前で、お前を通して自分の聖なることを示し、彼らがわたしを知るようになるためである」(14~16節)。

 何故イスラエルの回復に関する預言の中で、このような出来事が記されているのか。それは、エゼキエルの預言が、バビロン捕囚からの解放という当時の出来事だけでなく、終末的な回復についても語っているからと思われる。聖書の預言では、時代的に隔たる出来事が重ねて語られることがある。

 それにしても、主なる神の恵みと憐れみによって復興し、祝福の中で「安らかに暮らしている」イスラエルに、どうしてこのような攻撃が仕掛けられるのだろうか。

 それは、この世においては神の民に敵対する存在がいることを、神の民に教えるためではないだろうか。ペトロはこう教えている。

「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」(ペトロの手紙一5章8節)。

「悪魔」の存在がある限り、この世界に完全な意味での平和と安全が訪れることはない。それ故ヤコブはこう勧めている。

「だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます」(ヤコブの手紙4章7節)。

 神の民は、「神に服従することによって、悪魔を追い出すことが出来る。

 ゴグは、イスラエルを見て、「わたしは囲いのない国へ攻め上る。城壁もかんぬきも門もなく安らかに生活している静かな国を襲う」と言った(11節)。しかし、イスラエルを愛する主は言われる。

「ゴグがイスラエルの地を襲う日、まさにその日に、と主なる神は言われる。わたしの憤りは激しく燃え上がる」(18節)。

 主なる神は、神の民を攻撃しようとする者に激しい「憤り」「燃え上が」らせて彼らを滅ぼし、神の民を守られる。そして、最後には悪魔を滅ぼし尽くして、イエス・キリストによって治められる新しい天と地をお与え下さる。その日、その約束を信じて待ち望もう。

祈り
 愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの大きな愛と慈しみの中に置き、御前に引き出して下さったことを、心から感謝致します。

 主よ、歴史が終わる時が来る、あなたの日が必ずやって来るというあなたの御言葉を聞き、御前にひれ伏します。あなたに贖われながら、なおも罪を引きずりながら生活をしていることを恥じます。主よ、お赦し下さい。

 主よ、終わりの時、多くの困難の中で、あなたにある希望を告白することが出来るよう、今日、この日から心を整えられ、あなたを告白しながら生活することが出来るよう、導いて下さい。

 また、今あなたに逆らっている者があなたに立ち帰り、あなたに贖われた者となり、あなたの民の中に加えられますよう、既に贖われた者をあなたが清めて、お用い下さい。

 感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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聖書日課 エゼキエル書37章

聖書日課 エゼキエル書37章(新共同訳 旧約pp.1357-1358)

 イスラエルの復興の預言が続く。1~14節では、「枯れた骨」のようになったイスラエルが主なる神の言葉によって復興することが、15節以降では、北イスラエルと南「ユダ」が統一され、「一人の王」によって治められることが語られている。

「そのとき、主はわたしに言われた。『人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。』わたしは答えた。『主なる神よ、あなたのみがご存じです。』そこで、主はわたしに言われた。『これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる』」(3~6節)。

 或る日、エゼキエルは、「枯れた骨」「いっぱい」散らばっている「谷」の幻を見た。すると、そこに主なる神の声が聞こえてきた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか」。エゼキエルは答えに窮して言った。「主なる神よ、あなたのみがご存じです」

 実は、当時、イスラエルの人々はこう言っていた。「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」と(11節)。

 しかし、その時主はエゼキエルに言われた。

「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る」

「枯れた骨」のように衰え果てたイスラエル。それまで彼らは、主の言葉に耳を傾けようとせず、その教えに逆らい続けてきた。そのために彼らは滅びてしまった。しかし、主なる神は彼らを見捨てることなく、彼らに語り続けて下さった。その声に耳を傾け、その声に聞き従った時、彼らは再び「命を得」て約束の地に帰り、祝福に溢れて生きる者とされた。

 かつて詩編の作者はこう詠った。

「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。わたしは誓ったことを果たします。あなたの正しい裁きを守ります。わたしは甚だしく卑しめられています。主よ、御言葉のとおり/命を得させてください」(詩編119編105~107節)。

 主の御言葉を聞き従うこと、「命」はそこからよみがえる。

祈り
 愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの大きな愛と慈しみに包まれ、御前に祈りを与えられることを心から感謝致します。

 主よ、罪に朽ち果て、何も感じなくなるまでに渇ききった者に、あなたの息、聖霊を吹きつけて下さい。あなたの霊によって生きる、新しい人に造り変えて下さい。

 罪に死に絶えた者にさえ命を与え、聖霊を注がれるあなたが、絶望の淵にいる一人一人に命を与え、聖霊を注いで下さいますよう、心からお願い致します。

 感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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