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沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 ヨブ記23章

聖書日課 ヨブ記23章(新共同訳 旧約pp.805-806)

 テマン人エリファズの言葉を受けて、再びヨブが語り出した。これは、友人達に対して語られた言葉というよりも、寧ろ主なる神に対するヨブの「訴え」「嘆き」の言葉と言った方がいいだろう。

「ヨブは答えた。今日も、わたしは苦しみ嘆き/呻きのために、わたしの手は重い。どうしたら、その方を見いだせるのか。おられるところに行けるのか。その方にわたしの訴えを差し出し/思う存分わたしの言い分を述べたいのに」(1~4節)。

 ヨブは、自分の「訴え」を聞いてもらえさえすれば、主なる神はきっと自分を顧みて、身の潔白を認めて下さるに違いないと信じていた。

「しかし、神はわたしの歩む道を/知っておられるはずだ。わたしを試してくだされば/金のようであることが分かるはずだ。わたしの足はその方に従って歩み/その道を守って、離れたことはない」(10~11節)。

 このように、ヨブは、どこまでも主なる神の正義を信じていた。しかし、主なる神はなおヨブに沈黙しておられた。

「だが、東に行ってもその方はおられず/西に行っても見定められない。北にひそんでおられて、とらえることはできず/南に身を覆っておられて、見いだせない」(8~9節)。

 これが、ヨブにとっての最大の苦しみだった。そして、主なる神の御心がどうしても分からないヨブにとって、それは大きな「恐れ」ともなっていた。

「神がいったん定められたなら/だれも翻すことはできない。神は望むがままに行われる。わたしのために定めたことを実行し/ほかにも多くのことを定めておられる。それゆえ、わたしは御顔におびえ/考えれば考えるほど、恐れる。神はわたしの勇気を失わせ/全能者はわたしをおびえさせる。わたしは暗黒を前にし/目の前には闇が立ちこめているのに/なぜ、滅ぼし尽くされずにいるのか」(13~17節)。

「なぜ」なのか? どうしてなのか? 人生には主なる神の御心が分からない故の苦しみというものがある。誰も慰めようのない苦しみ…。私達はここに、苦しみの中で主なる神と必死に格闘した信仰者の赤裸々な告白を見る。しかし、ここにも主なる神の恵みはあると言える。何故なら、主なる神はヨブを見捨てたのではなく、恵みを取り除いてしまったのでもなく、ヨブを信頼し、ヨブと共におられ、ヨブの苦しみと嘆きを一緒に耐えていて下さったということを、私達は知ることが出来るからである。だから、主なる神に苦しみを訴えることは良しとしても、主なる神を疑う理由は全くない。

「主よ、わたしはなお、あなたに信頼し/『あなたこそわたしの神』と申します」(詩編31編15節)。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
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