聖書日課 ヨブ記20章(新共同訳 旧約pp.800-802)
3人目の友人ツォファルが再び口を開いた。しかし、彼もまたヨブの言葉に苛立ち、興奮して、激しい言葉で反論してきた。しかも、その言わんとするところは、相も変わらず〈因果応報〉の考えそのものだった。「神に逆らう者の喜びは、はかなく/神を無視する者の楽しみは、つかの間にすぎない」と、ヨブの罪を責め立てるばかりであった。
「ナアマ人ツォファルは答えた。さまざまな思いがわたしを興奮させるので/わたしは反論せざるをえない。あなたの説はわたしに対する非難と聞こえる。明らかにすることを望んで、答えよう。あなたも知っているだろうが/昔、人が地上に置かれたときから/神に逆らう者の喜びは、はかなく/神を無視する者の楽しみは、つかの間にすぎない。たとえ彼が天に達するほど/頭が雲に達するほど上って行っても/自分の汚物と同様、永久に失われ/探す者は、『どこへ行ってしまったのか』と言わなければならなくなる」(1~7節)。
それに加えて、今度は、ヨブの財産が「貧しい人々を虐げ見捨て」ることによって築いたものであり、ヨブが「自ら建てもしない家を奪い取」り(19節)、「欲望」に駆られて「食い尽く」すように得たものであるため、「彼の繁栄は長くは続」かなかったと言い放った(20~21節)。
これらのツォファルの言葉を見ると、彼は一貫して、地上における繁栄を問題にしていることが分かる。しかし、ヨブが本当に問題にしていたのは、財産や健康のことよりも、寧ろ主なる神御自身との関わりだった。ヨブは、主なる神の恵みが取り去られてしまったことへの疑問を訴えていた。
その点で、ツォファルは、ヨブの真の苦しみと訴えを全く理解していなかったことが分かる。それは、ツォファルの興味関心が、この世の富にしか向いていなかったからである。
私達が人を裁く時にも同じことが起こる。私達が人を裁く時、それは相手の問題を明らかにするというより、自分自身の心の問題が、相手に投影されているだけということがある。この点、イエス・キリストは鋭い指摘をされている。
「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」(マタイによる福音書7章3節)。
主の御言葉に照らして、自分自身を見つめることの大切さを教えられる。
西原新生バプテスト教会
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