ヨブの言葉が続く。ヨブは最早死を覚悟するようになっていた。いや、ヨブにとって死は寧ろ苦しみからの解放であった。
「息は絶え、人生の日は尽きる。わたしには墓があるばかり」(1節)。
しかし、たとえ死んで肉体の苦しみはなくなっても、人々が自分を罪ある者とすることに違いはない。人々は相変わらず苦難の中にあるヨブを非難し、彼を嘲っていた。
「人々はなお、わたしを嘲り/わたしの目は夜通し彼らの敵意を見ている」(2節)。
では、最終的にヨブの無実を証明してくれるのは誰か?
それは、主なる神以外に存在しない。ヨブは、主なる神が自分との恵みの契約を取り去ってしまったと言って、主なる神に訴えかけていた。しかし、それでも最後に拠り頼むことが出来るのは、主なる神以外に有り得なかった。主なる神以外に、ヨブの潔白を保証してくれる方を期待しようがなかった。
それ故、ヨブは主なる神に願い出た。
「あなた自ら保証人となってください。ほかの誰が/わたしの味方をしてくれましょう。彼らの心を覆って目覚めることのないようにし/彼らを高く上げないでください」(3~4節)。
ここにヨブの覚悟が見られる。たとえ自分に理解出来ないことがあったとしても、そのために死ぬほどの苦しみに遭っていたとしても、主なる神の真実は疑いようもないこと、そして真実の神に拠り頼む以外に道はないことを、ヨブは悟っていた。
たとえ状況はどうであれ、あくまでも主なる神に信頼するという信仰、それがこの苦しみの中でヨブが到達した信仰の境地だった。それは、バビロン捕囚の時代に、異国の地で主に仕え続けた3人の若者の信仰にも見られる真の信仰者の姿である。
「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴはネブカドネツァル王に答えた。『このお定めにつきまして、お答えする必要はございません。わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません』」(ダニエル書3章16~18節)。
西原新生バプテスト教会
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