ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 ヨブ記10章

聖書日課 ヨブ記10章(新共同訳 旧約pp.787-788)

 謹んで新年のご挨拶を申し上げます!
 2023年も、主と共に歩む恵みと平和と祝福溢れる日々でありますように!
 本年も、どうか宜しくお願い致します。


 ヨブの「嘆き」が続く。しかし、ヨブの「嘆き」は、独り言のようなものではなく、主なる神に向かってまっすぐに本音をぶつけるものであった。

「わたしの魂は生きることをいとう。嘆きに身をゆだね、悩み嘆いて語ろう。神にこう言おう。『わたしに罪があると言わないでください。なぜわたしと争われるのかを教えてください。手ずから造られたこのわたしを虐げ退けて/あなたに背く者のたくらみには光を当てられる。それでいいのでしょうか』」(1~3節)。

 それは、或る意味で一つの信仰の姿と言えるだろう。信仰者は、喜びや感謝を主なる神に献げるだけでなく、悲しみや苦しみも主なる神に告白し、ぶつける。順境でも逆境でも、信仰者はいつも主なる神と向き合い続ける。

 ヨブの信仰は、この他にも見ることが出来る。

「あなたはわたしを乳のように注ぎ出し/チーズのように固め、骨と筋を編み合わせ/それに皮と肉を着せてくださった。わたしに命と恵みを約束し/あなたの加護によって/わたしの霊は保たれていました」(10~12節)。

 ここでヨブは、自分が主なる神によって造られた存在であると告白している。主なる神はヨブに「命」を与え、「恵み」によって彼の「霊は保たれてい」たというのである。ここには律法による義ではなく、主なる神の恵みによる義に通じる信仰が芽吹いている。

 従って、ヨブの苦しみは、恵みの神が最早恵みの神でなくなってしまったというところにあった。それは、ヨブにとって、自分の存在の意味と根拠を失ってしまうことでもあった。だからこそ、ヨブの苦しみは深かった。ヨブは必死にもがいた。自分の信仰と存在の全てをかけて。

「なぜ、わたしを母の胎から引き出したのですか。わたしなど、だれの目にも止まらぬうちに/死んでしまえばよかったものを。あたかも存在しなかったかのように/母の胎から墓へと運ばれていればよかったのに」(18~19節)。

 このヨブの言葉の激しさは、決して不信仰とか主なる神への反逆ではない。彼の信仰故の激しさであり、自分自身の存在の意味と根拠をかけた必死の叫びだった。ここに、主なる神を本気で信じて生きる者の姿がある。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119
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