聖書日課 ヨブ記22章(新共同訳 旧約pp.803-805)
ヨブと友人達との3回目の討論がここから始まる。例によって「テマン人エリファズ」が最初に口を開いた。エリファズは、ヨブが主なる神に対して自分の潔白を主張するのを聞いて言った。
「テマン人エリファズは答えた。人間が神にとって有益でありえようか。賢い人でさえ、有益でありえようか。あなたが正しいからといって全能者が喜び/完全な道を歩むからといって/神の利益になるだろうか。あなたが神を畏れ敬っているのに/神があなたを責め/あなたを裁きの座に引き出されるだろうか。あなたは甚だしく悪を行い/限りもなく不正を行ったのではないか」(1~5節)。
ここにはエリファズの神観が表されている。つまり、彼にとって神とは、因果応報の原理に従ってこの宇宙を機械的に治める超越的存在であり、人間と親しく交わる方ではなかった。だから、たとえヨブが正しく歩んでいたとしても、それで神が喜んだり、「神の利益になる」ようなことなどないというのである。エリファズは、ヨブが持っていたような主なる神との親しい交わりの中に生きていなかった。それ故、自分が主なる神に喜ばれるなどとは思いもよらなかった。
更に、エリファズは「あなたが神を畏れ敬っているのに/神があなたを責め/あなたを裁きの座に引き出されるだろうか」と言っている。
一貫して自分の潔白を主張し続けるヨブに対し、エリファズは、「神を畏れ敬っている」ヨブを主なる神が「責め」たり「裁きの座に引き出」したりする筈がないというのである。これは、これまでの意見と同様に、因果応報という考え方の繰り返しに過ぎない。
あくまでも因果応報に固執するエリファズには、ヨブが受けているような、罪に対する裁き以外の苦難は想像もつかないことであった。これは裏を返せば、自分達の繁栄は、自分達の善行に対する当然の報いであるということである。そこには、主なる神の恵みによる祝福という考え方はない。また、彼の興味関心は、結局のところ目に見えるこの世の繁栄にあり、恵み深い神との親しい愛の交わりを切に求めるヨブの信仰とは全く違うものであった。
「あなたを尋ね求める人が/あなたによって喜び祝い、楽しみ/御救いを愛する人が/神をあがめよといつも歌いますように」(詩編70編5節)。
さて、私達の信仰はどのようなものだろうか。
西原新生バプテスト教会
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