何故イスラエルの民は「炎の蛇とさそりのいる、水のない乾いた、広くて恐ろしい荒れ野」を通過しなければならなかったのか(15節)。あの40年の荒れ野の旅は無駄だったのか。いや、主なる神の深いご計画と配慮に満ちていた。荒れ野にも祝福があったのである。
モーセは40年の荒れ野の旅を振り返って総括している。
「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた」(2節)。
主なる神はイスラエルの民を愛しておられる。それは単なる甘やかしではない。愛するからこそ苦しみの中を通らせた。そのことを通して、私達の内面を探り、きよめるためである。
「あなたを苦しめて試し」とは、イスラエルの民に対する〈試験〉である。成績の悪い者を振るい落とすための試験ではない。何が理解出来ていないか、何が身についているかを明らかにして、より鍛えるための試験である。
だから、「あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい」とモーセは教えている(5節)。
最後に、荒れ野における最も重要な訓練がある。それは、毎朝マナを通して養われる訓練である。
「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」(3節)。
私達が地上の生涯において受ける訓練は、私達がパンだけでなく、主なる神の御言葉によって生きることを身に付けるためのものである。「主の口から出る」御言葉によって「生きること」を身に付けなければ、人としての本当の幸いは有り得ないからである。
マナは早朝に降ったので、イスラエルの民は「朝ごとにそれぞれ必要な分を集め」なければならなった(出エジプト記16章21節)。多めに集めても、「翌朝」には「虫がついて」腐ってしまった(同20節)。その日の分はその日に得なければならなかった。
主なる神の御言葉も同じである。聖書を1週間分読み溜めておこうとしても、意味がない。毎日コツコツ読み続けよう。その日その日に必要な御言葉が与えられ、教えられ、導かれる。
聖書を読んでも大した効果を感じないかも知れない。しかし、御言葉は即効性のある特効薬ではなく、漢方薬のようなものである。コツコツ読み続けることで、心の体質が変化する。心の筋力がついてくる。
主なる神はこのことを通して、私達を「幸福に」しようとされている(16節)。
西原新生バプテスト教会
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