聖書日課 出エジプト記33章(新共同訳 旧約pp.149-150)
モーセは必死に祈り求めた。主なる神がイスラエルの「罪をお赦しくださる」ことを。そして、「もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください」と主なる神に迫った(32章31~32節)。主なる神は、モーセの願いを聞き入れ、イスラエルの民のために「使い」を「遣わし」、敵を「追い出す」と言われた(2~3節)。
それでもモーセは主なる神に祈り求めた。主なる神御自身が、イスラエルの民と約束の地に「共に行ってくださること」を。
「モーセは主に言った。『もし、あなた御自身が行ってくださらないのなら、わたしたちをここから上らせないでください。一体何によって、わたしとあなたの民に御好意を示してくださることが分かるでしょうか。あなたがわたしたちと共に行ってくださることによってではありませんか。そうすれば、わたしとあなたの民は、地上のすべての民と異なる特別なものとなるでしょう』」(15~16節)。
実は、主なる神がこれ以上イスラエルの民と共におられたら、今度こそ頑なな彼らを滅ぼしかねなかった。しかし、モーセは、主がイスラエルの民と共に行って下さることを求めた。それは、主なる神の御臨在こそが神の民であることのしるしであり、主なる神がイスラエルの民に「御好意を示してくださる」ことの証しだったからである。
主なる神は、今度もモーセの願いを叶えて下さった。
「主はモーセに言われた。『わたしは、あなたのこの願いもかなえよう。わたしはあなたに好意を示し、あなたを名指しで選んだからである』」(17節)。
ところが、モーセは、主なる神に「どうか、あなたの栄光をお示しください」と更に祈り求めた(18節)。主なる神は、このモーセの祈りに「あなたはわたしの後ろを見るが、わたしの顔は見えない」と答えられた(23節)。何故後ろ姿なのか? 主なる神の栄光を目の当たりにすると、人は「生きていることはできないから」である(20節)。
このように、モーセは、どこまでも主なる神に祈り求め続けた。厳しい荒れ野の旅路を上って行く中で、モーセが何よりも求めたのは、主なる神の御臨在だった。主が自分達と共にいて下さること、これがモーセの祈りであった。
私達の生きる現実も、厳しく険しい戦いのように思われることがある。だからこそ、私達もまた、日々主の御臨在を祈り求め、主が共にいて下さる平安と力に満たされて戦いの現場に出て行くことが必要なのではないか。
西原新生バプテスト教会
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