聖書日課 ヨシュア記1章(新共同訳 旧約pp.340-341)
イスラエル民族はモーセに率いられて奴隷の地エジプトを脱出した。時は、紀元前13世紀頃と言われている。
その後、40年にわたりシナイの荒れ野を旅し、遂に約束の地カナンを目前にした。ヨシュア記はそこから物語が始まる。
荒れ野の40年の間に、エジプトを出立した時の世代は死に絶え、新しい世代の人々によってイスラエルは構成されていた。
また、40年にわたってイスラエルの民を導いたモーセも、約束の地に入る直前、モアブの地で死んだ(申命記34章1~8節)。その後任として「ヌンの子ヨシュア」が任命された(同34章9節)。
約束の地カナンを目指してモーセはエジプトを出立した。しかし、彼は約束の地に入ることが出来なかった。主なる神のなさることは、人間の目には理不尽に映る。しかし、ここにも主なる神の意図が隠されている。
聖書においてモーセは律法の象徴である。律法はモーセを通して民にもたらされたからである。しかし、律法で全てが完結するわけではない。「律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係」である(ガラテヤの信徒の手紙3章24節)。
律法の象徴とも言えるモーセによって約束の地に入るのではなく、ヨシュアに引き継がれなければならなかった。
「ヨシュア」というヘブライ語は、ギリシア語では「イエス」である。約束の地は、モーセではなくヨシュアによって、即ちイエスによって入るべき地である。
このように見ていくと、旧約聖書の出来事は、新約におけるイエス・キリストについて表していることが分かる。これを〈予型〉とか〈予表〉と言う。旧約にはこのような〈予型〉が度々記されている。
さて、モーセから引き継いだヨシュアに、主なる神は力強く語りかけておられる。主はヨシュアに「強く、雄々しくあれ」と4回も語られている(6節、7節、9節、18節)。
「わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる」(9節)。
これからカナンの地に入ろうとしている矢先である。実は40年前も同じ状況にあった。その時、イスラエルの民は、不安が先立ち、カナンの地に侵入することを恐れ、主なる神の命令に背いた。
その結果、イスラエル民族は40年間も荒れ野に留まることを余儀なくされた。
また同じ失敗をしてしまうのではないか。そう思うと恐れが生じてくる。イスラエルの民は、特別な軍事訓練をした民ではない。子女も老人も抱えながらの旅である。
そのような民族が、屈強な民が住んでいるカナンの地を征服出来るのか。人間的に考えれば、恐れて当然である。尻込みしてしまう。
しかし、主なる神は繰り返しヨシュアに命じられる。「強く、また雄々しくあれ」。
主なる神がヨシュアにそのように命じられるのには根拠がある。
「一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない」(5節)。
主が「共にいる」ことは、どんな条件よりも最優先されるべきことである。他の条件がどんなに悪くても、主が「共にいる」ならば大丈夫である。
私達の主イエス・キリストは、「インマヌエルと呼ばれる」御方であ。インマヌエルとは「神は我々と共におられる」という意味である(マタイによる福音書1章23節)。
ここで、主なる神は、ヨシュアに対し、主が共におられるのを体験する方法を教えている。
「ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する」(7~8節)。
主なる神を肉眼で確認することは出来ない。しかし、私達が主なる神の御言葉を「口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守」ることで、共におられる主なる神を体験する。
主なる神の御言葉を「口から離すことなく」とある。記憶から離さずではない。たえず口に出し、告白するのである。
では、新約における律法とは何だろうか。イエス・キリストは次のように言われている。
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネによる福音書13章34~35節)。
「イエス・キリストが私達を愛して下さったように、互いに愛し合おう」と告白し、「互いに愛し合う」ことで、私達は共におられる主なる神を体験する。告白はやがて実際の生活になる。
ヨシュア記は、まさに主なる神が「共にいる」故の勝利の物語である。ヨシュア記を通して、私達も、主なる神が「共にいる」故の勝利を体験しよう。
西原新生バプテスト教会
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