ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 民数記24章

聖書日課 民数記24章(新共同訳 旧約pp.255-257)

 バラク王は、場所を変えてイスラエルを見れば呪うべき弱点が発見出来るのではないかと考え、預言者バラムを「荒れ果てた地を見下ろすペオルの頂」に連れて行った(23章28節)。しかし、そこでも主なる神がお与えになった預言は祝福の言葉であった。

「いつものようにまじないを行いに行くことをせず」とあるように(1節)、バラムは、普段は「まじない」を用いて預言をしていた邪悪な人物であった。そのようなバラムが、主なる神の「託宣」を取り次ぐことが出来たのは、「神の霊がそのとき、彼に臨んだ」からである(2~3節)。だから、一連の預言は、バラムの口を通して語られてはいるものの、主なる神がバラムに授けたご自身の御言葉である。

「イエスが国民のために死ぬ」という大祭司カイアファ――イエス・キリストと敵対していた――の言葉も、「自分の考え」ではなく「預言」として語られたと聖書は記している(ヨハネによる福音書11章50~52節)。主なる神は、バラムやカイアファのような人物の口を通して語られることもある。

 さて、主なる神はイスラエルを眺めて何と言われたか。

「いかに良いことか/ヤコブよ、あなたの天幕は/イスラエルよ、あなたの住む所は」と(5節)、荒れ野に宿営するイスラエルの群れを「良い」と言われた。

 荒れ野を旅する人々を「良い」とはお世辞にも言い難い。砂埃にまみれ、貧相な荒れ野での移住生活を「良い」とはなかなか言えない。しかし、人の目にはそうであっても、主なる神の目には「良い」のである。

 荒れ野の旅路においては失敗もあった。沢山の挫折も味わった。恥ずべき逸脱もあった。そのような失態の数々を民数記は記録している。しかし、そうした荒れ野の試練を通過して今日に至ったイスラエルの姿を、主なる神は「良い」と言われる。

 教会も「天の故郷」を目指して(ヘブライ人への手紙11章16節)、荒れ野を旅している民である。荒れ野とは試練に直面している時である。そこでは様々な失敗や挫折を味わう。

 しかし、そのような荒れ野を通過するからこそ育まれる〈良さ〉がある。それは、人格が練り上げられ、信仰が成長することである。荒れ野の旅を終え、いよいよ「天の故郷」に入ろうとするその時、主なる神に「いかに良いことか/キリストの花嫁なる教会は」と言っていただけると願う。

 私達は、何の問題もなく快適に過ごすためにイエス・キリストを信じるのではない。また、困難を避け、世を上手く泳いで渡るためにイエス・キリストを信じるのでもない。

 寧ろ主なる神は、荒れ野を通らせることによって、私達を〈エジプト〉時代に養った罪の生活から抜け出させ、邪悪な習慣を断ち切らせ、神の国に相応しい者へと聖化しようとされる。

 荒れ野を通過することによって、主なる神のお取り扱いを受けた者に祝福があるように。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119
メールアドレス

f:id:Biblicism:20210602142922p:plain

https://nschrist1972.hatenablog.com/
〈地図〉

www.google.com