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沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年に伝道開始50年を迎えます。

聖書日課 マタイによる福音書28章

聖書日課 マタイによる福音書28章(新共同訳 新約pp.59-60)

 イエス・キリストの復活は、私達の常識を超えている。しかし、聖書は、イエス・キリストが復活されたことを、当然のことのように語り、改めてそれ自体を問うたりはしていない。イエス・キリストは、復活された後、御自身が生きておられることを弟子達にお示しになった(16~17節)。復活は、論証されるべきことではなく、宣言されることであり、一人一人が御言葉において、復活の主と出会うことによって、初めて本当に分かることである(5~10節)。
 その後、イエス・キリストは、弟子達の見ている前で、天に上げられた(使徒言行録1章3~11節)。天に昇られたイエス・キリストは、終わりの日に完全な審きのために再び来られるまでは、天におられる。
 では、イエス・キリストが今天におられるならば、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイによる福音書28章20節)という約束はどうなったのだろうか。確かに、イエス・キリストは、目に見えるお姿で地上におられるわけではない。しかし、主御自身が約束して下さったように、主は天から弁護者、助け主としての聖霊を送って下さる(ヨハネによる福音書14章16~17節、使徒言行録2章33節)。イエス・キリストは、御自身の霊である聖霊において、今も後も永遠に私達と一緒にいて下さる。
 それ故、この地上の歩みの中で、私達がいかなる困難に直面したとしても、行く手を阻まれ、四方八方を塞がれてしまったとしても、イエス・キリストがおられる天を仰ぐことが出来る。天とは、イエス・キリストがおられる所であり、そこに私達の国籍がある(フィリピの信徒への手紙3章20節)。しかも、その天において、イエス・キリストは、父なる神の右におられ、私達のために執り成しをして下さっている(ペトロの手紙一3章22節)。私達はいかなる時にも、天におられるイエス・キリストの執り成しによって守られている。また私達と共にあり、私達の内に住んで下さる聖霊の励ましによって、いつも支えられている。
 一方、イエス・キリストの復活は、私達が義とされることに関わる(ローマの信徒への手紙4章25節)。イエス・キリストは、その甦りによって、死の力に打ち勝たれ、義の道を切り開いて下さった。聖書において、死は単に生物学的な命の終わりとして捉えられているわけではない。私達の死は、主なる神に対する罪の結果として入り込んできた。しかし、イエス・キリストは、死に至るまでの徹底した従順によって、主なる神の義を満たして下さった。御自身の死によって、罪と死の支配を終わらせられた。そして、復活によって、私達が主なる神の義に与ることが出来るように、救いの道を切り開いて下さった。私達の義は、私達の内にあるのではなく、私達の外、イエス・キリストの内にある。私達は、このイエス・キリストと一つに結ばれることによって、イエス・キリストの義に与らせていただく。
 復活されたイエス・キリストは、弟子達に「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(19~20節)とお命じになっている。バプテスマ(洗礼)は、私達がイエス・キリストと一つに結ばれることである(ローマの信徒への手紙6章3~11節)。私達は、イエス・キリストの死に結ばれることによって、古い罪の自分に死ぬ。そして、イエス・キリストの復活に与ることによって、新しい命に生きる。
 更に、イエス・キリストの復活は、私達の復活を保証する。確かに、私達は、イエス・キリストに結ばれて、今既にその復活の命を生き始めている。しかし、この肉の体、朽ちていく体が全く新たにされるという意味で復活を経験するのは、終わりの日のことである。終わりの日に、主なる神の御前に、朽ちない栄光の体に甦って、永遠に主の御名をほめたたえるのである。この地上においては、いくら新しくされたといっても、私達は死なない体を得たわけではない。しかし、死によっても決して空しくされることのない復活の望みが与えられている(ヨハネによる福音書11章25節、ローマの信徒への手紙8章11節)。それは決して不確かな望みではない。主イエス・キリストの復活によって保証されている(コリントの信徒への手紙一15章20~22節)。
 聖書は、私達がイエス・キリストと一つに結ばれることを、とても大切に受けとめている。私達がイエス・キリストと一体になり、イエス・キリストの中にいるならば、イエス・キリストの身に起こったことは、私達の上にも起こることになる。私達は、イエス・キリストと共に死んで甦らされるだけではない。更にその先がある。イエス・キリストと共に天の王座に着かせていただき(エフェソの信徒への手紙2章4~6節)、イエス・キリストが現れる時には、私達もイエス・キリストと共に栄光に包まれて現れる(コロサイの信徒への手紙3章4節)。イエス・キリストと一つに結ばれる時、私達はイエス・キリストの内にあるので、イエス・キリストが持つものを私達も持つことになる。それは何という驚くべき救いの約束だろうか。