ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えます。

バプテスマ準備クラス 2022年1月23日

バプテスマ準備クラス 2022年1月23日
イエス・キリスト(1)

イエス・キリストは神のひとり子であり、真の神であり、真の人でありますイエス・キリスト聖霊によって処女マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、三日目に復活し、天にあげられ神の右に座し、私たちのためにとりなし、再び来られ、生ける者と死せる者を裁かれる主であります」

「御子は私たち罪人の救いのために人となり、十字架にかけられ、ひとたび己を全き犠牲として神にささげ、わたしたちの贖いとなられました。その業は、私たちを神と和解させ、罪と悪魔と死より救うためのものであります」

 今回から、信仰告白の「4 イエス・キリスト」の部分を、他の項目と関連付けながら、何回かに分けて見ていく。
「キリスト」は〈油注がれた者〉という意味で、旧約聖書の中で出て来る〈メシア〉というヘブライ語ギリシア語に翻訳した言葉である。古代イスラエルにおいては、主なる神によって召され、特別に預言者、祭司、王の職務に立てられた時、油を注がれた。そこから、やがて主なる神が遣わして下さる救い主を〈メシア〉と呼んで待ち望むようになった。ナザレのイエスが主なる神から〈油注がれた者〉として立てられた時、この方によって、〈最高の預言者〉〈唯一の大祭司〉〈永遠の王〉という職務が担われることになった。
 そして、イエス・キリストだけが、特別に「神のひとり子」と呼ばれる。裏返して言えば、イエス・キリストだけが、生まれながらにして、主なる神を〈父〉と呼ぶことの出来る方である。イエス・キリストは、「私たち罪人の救いのために」父なる神によって私達の世界に「真の人」として遣わされた方であり、かつ父なる神と全く同じ力と権威を持つ「真の神」である。
 確かに、私達も〈神の子〉と呼ばれる。しかし、私達が〈神の子〉と呼ばれるのは、決して当たり前のことではない。イエス・キリストが神の子であるということと、私達が神の子であるということは、決して同じレベルで扱える事柄ではない。
 にもかかわらず、「神のひとり子」であるイエス・キリストは、弟子達に、そして私達に、主なる神を〈父〉と呼ぶことを教えて下さった。イエス・キリストが教えて下さった主の祈りは、「天におられる私達の父よ」という呼びかけで始まる。主なる神は、イエス・キリストの父であるだけでなく、私達全ての者の父となって下さった。私達は、イエス・キリストのおかげで、イエス・キリストを通して、主なる神の養子にしていただいた。私達は、主なる神の養子として、イエス・キリストの兄弟姉妹とされ、相続の権利さえも与えられた。

「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです」(ローマの信徒への手紙8章14~17節)。

 私達は、主なる神を父とし、イエス・キリストを長子とする神の家族の一員として招かれた。だから、イエス・キリストが何をして下さったかということを忘れてはならない。長子であるイエス・キリストには、「主」という称号が与えられている。「主」イエス・キリスト「主」とは、私達が信頼し、全てを委ね、従うべき〈主人〉という意味である。

「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。聖書にも、『主を信じる者は、だれも失望することがない』と書いてあります。ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』のです」(ローマの信徒への手紙10章9~13節)。

「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」(フィリピの信徒への手紙2章9~11節)。

 罪の下にある時、私達は、「神の律法」を守ることが出来ず、主なる神に背いて「罪」を犯し、その裁きとしての「死」を免れることが出来ない。そして、そういう自分の惨めな状態を自分ではどうすることも出来ない。そのような「私たちを神と和解させ、罪と悪魔と死より救うため」に、「神のひとり子」イエス・キリスト「人となり、十字架にかけられ、ひとたび己を全き犠牲として神にささげ、わたしたちの贖いとなられ」た。イエス・キリストが十字架の上で流された尊い血潮によって、私達は「罪と悪魔と死」支配下から救い出され、御子イエス・キリスト支配下へと移された。「神のひとり子」イエス・キリストこそ、私達の「主」である。御子イエス・キリストのものとされた。そこに、私達の喜びと慰めの確かな根拠がある。