ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

バプテスマ準備クラス 2022年1月16日

バプテスマ準備クラス 2022年1月16日
聖霊

聖霊は、救い主イエス・キリストを証しし、これを告白させ、又助け主として私たちの信仰生活を支え、来るべき救いの完成に至る保証としての働きをなさる方であります」

 今日私達は、信仰告白の「6 聖霊」について学ぶ。この告白は、簡潔な言葉で要点をきちんと述べている。信仰告白の言葉を通して、聖霊信仰の中核をしっかり捉えたい。
 聖霊を信じるというのは、信仰告白の「2 神」で述べられている「愛と義であり、真なる生ける神、創造者なる神、父、子、聖霊として働かれる三位一体の神」の霊を信じるということである。
 聖霊は、幽霊や悪霊や〈精霊〉や人間の霊ではない。また、天使でもない。私達は、ともすると聖霊が、父なる神や子なる神と同様に主なる神であり、礼拝されるべき方であるということを忘れ、聖霊を、非人格的な力のように捉えてしまうことがある。
 確かに、聖書の中には、聖霊「息」「風」として描かれている箇所がある。主なる神は、最初の人を造られた時、「土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた」(創世記2章7節)。イエス・キリストも、復活して弟子達の前に姿を現された時、彼らに「息を吹きかけて」、新しい命を授けられた(ヨハネによる福音書20章21~23節)。また、ユダヤ人の指導者であったニコデモとの対話の中で、聖霊の働きを「思いのままに吹く」「風」に喩えておられる(ヨハネによる福音書3章8節)。
 だからこそ、主なる神が「父、子、聖霊として働かれる三位一体の神」であることを、きちんと受けとめる必要がある。父なる神は、主権者、「創造者」、律法を与える方として、いわば〈私達の上にいます神〉としてご自身を現された。子なる神は、贖い主、救い主として、〈私達と共にいます神〉として来て下さった。そして、聖霊なる神は、弁護者、「助け主」として、〈私達の内にいます神〉として、私達の間で働かれる方である。
 聖霊は、「救い主イエス・キリストを証し」する霊、「イエスは主である」と告白させる霊であり、私達の内にイエス・キリストに対する真の信仰を生み出して下さる。

「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(コリントの信徒への手紙一12章3節)。

「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです」(エフェソの信徒への手紙1章13節)。

 イエス・キリストの十字架と私達の間には、2000年の時の隔たりがある。イスラエルと日本という空間的な隔たりもある。しかし、聖霊が助けて下さることによって、私達は「救い主イエス・キリストをはっきりと知ることが出来る。イエス・キリストの十字架と復活が私のためでもあったことを信じ、イエス・キリストを自分の救い主として、主として受け入れることへと導かれる。そして、イエス・キリストの豊かな恵みに与るようになる。
 勿論、思いのままに吹く「風」のように、聖霊の働きの範囲を限定することは出来ない。しかし、聖霊を信じることは、父なる神を信じること、主イエス・キリストを信じることを無視したり、軽視したりして成り立つものではない。聖霊の働きがイエス・キリスト抜きに強調されるとしたら、それは信仰を骨抜きにしてしまう。
 イエス・キリストの恵みの中心は、〈永遠に私達と共にいて下さる〉ということである。イエス・キリストは、十字架にかけられる前の晩、弟子達にそのことを話された。

「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」(ヨハネによる福音書14章16~17節)。

「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである」(ヨハネによる福音書15章26節)。

 ここで聖霊「弁護者」と呼ばれている。口語訳や新改訳では「助け主」と訳されている。
 イエス・キリストは死んで甦られた後、弟子達と共に過ごされた。しかし、いつまでも弟子達と共におられたわけではなく、聖霊を送る約束を残して、天に昇られた。そして、イエス・キリストの復活から50日目に約束の聖霊が降った(使徒言行録2章1~4節)。聖霊は、いつも私達と共にいて下さり、「助け主として私たちの信仰生活を支え」ると共に、「来るべき救いの完成に至る保証としての働き」をして下さる。
 また、聖霊を受けた弟子達の働きを通して、イエス・キリストの福音は、エルサレムから始まってユダヤサマリアの全土」、そして「地の果てに至るまで」もたらされていく。弟子達は、聖霊を受けた後、イエス・キリスト「証人」として遣わされていった(使徒言行録1章8節)。使徒言行録は、弟子達をはじめとする最初期の教会の働きを記している。しかし、それは、より正確に言えば、弟子達の内にあって力強く働き、教会を通して宣教を進めていかれる聖霊の御業の記録である。聖霊の働きと教会の宣教を切り離すことは出来ない。
 聖霊は、私達に対しても、「助け主」として私達の内にあって働きかけ、私達を生かして下さる。そして、私達を立ち上がらせ、御自身の御業のために私達を用いて下さる。