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沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 民数記26章

聖書日課 民数記26章(新共同訳 旧約pp.258-261)

 1章では「二十歳以上の男子を氏族ごとに、家系に従って一人一人点呼し、戸籍登録」が行われた(18節)。「登録された者の総計は六十万三千五百五十人であった」(46節)。

 それから40年後、荒れ野の旅路の終わりにあたって、主なる神はもう一度「家系に従って人口調査」をするよう命じられた(1節)。その記録が26章である。「登録された者は総計六十万一千七百三十人であった」(51節)。

 但し、「エフネの子カレブとヌンの子ヨシュアを除いて」「その中には、モーセと祭司アロンがシナイの荒れ野でイスラエルの人々を登録したときに登録された者は一人もいなかった」(64~65節)。

 荒れ野の40年を通じて、出エジプトした世代は死に絶え、新しい世代に移り変わっていった。また、エジプトを出た後、イスラエルの人々は直接カナンに入るのではなく、荒れ野を通過しなければならなかった。このことは何を意味するのだろうか。

 主なる神は、エジプト時代に培われた偶像礼拝の習慣・価値観・発想・感受性を荒れ野で滅ぼし、御言葉によって養われる新しい民として、イスラエルに約束の地を受け継がせようとされた。

 荒れ野における主なる神の意図は、新約の民である教会に対しても同じである。出エジプトした民がエジプト時代に身につけた生き方・考え方を引きずっていたように、キリスト者も罪の奴隷であった時代に染みついた習慣や価値観、発想や感受性を引きずっている。それを聖書は「肉の思い」とか「肉」と表現している(ローマの信徒への手紙8章5~7節)。

 例えば、イエス・キリストの弟子達は「だれがいちばん偉いか」をめぐって度々争っている(マルコによる福音書9章34節、ルカによる福音書22章24節)。これは肉の問題である。それに対し、イエス・キリスト「仕える者になりなさい」神の国の価値観を示された。

「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」(ルカによる福音書22章26節)。

 また、コリントの教会の人々は「誰を誇るか」「何を誇るか」という問題をめぐって争っていた。これらも、自分は〇〇先生からバプテスマを受けたとか、○○先生に師事したといった、肉の発想から生じた問題だった。

 しかし、聖書は「誇る者は主を誇れ」と新しい価値観、新しい発想を示している(コリントの信徒への手紙一1章31節)。

「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです」(ガラテヤの信徒への手紙6章14節)。

 私達は地上の生涯という〈荒れ野〉を旅する中で、この「肉の人」が完全に死に(コリントの信徒への手紙一3章3節)――最後には肉体も死んでしまう――新しい人となって、つまり聖霊に属する人となって、復活の体を受け、神の国を受け継ぐ。

「肉」神の国を受け継ぐことはでき」ない(コリントの信徒への手紙一15章50節)。憎しみを持ったまま、不平不満を持ったまま、神の国に行ったら、その恵みが台無しになってしまうからである。

 だから、主なる神は、この地上という「荒れ野」を通して、私達の古い人を滅ぼされる。そして、私達が新しい人となって神の国に入るように取り扱われる。それを表現するかのように、出エジプトした世代は荒れ野で死に絶え、新しい世代のイスラエルが約束の地に入った。

 このようにして、イエス・キリストを信じた当初に数えられた「肉の人」も、荒れ野の旅を終える時には「一人もいな」くなる。荒れ野に込められた意味を知って、主に従おう。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119
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