聖書日課 エゼキエル書22章(新共同訳 旧約pp.1329-1331)
本章には、ユダとエルサレムに対する主なる神の裁きについての3つの預言が記されている。その中で、都エルサレムが「流血の都」と呼ばれている。それは、外から攻撃されて流された「血」ではなく、エルサレムが自らの手によって流した「血」である。
「主の言葉がわたしに臨んだ。『人の子よ、あなたはこの流血の都を裁くのか。それならば、この都にそのすべての忌まわしいことを知らせよ。そして言いなさい。主なる神はこう言われる。自らの真ん中に血を流し、自分の時を来させようとする都よ。自分のために偶像を造って、自らを汚す都よ。流した血によってお前は罪を負い、造った偶像によって汚される。こうしてお前は自分の日を近づかせ、自分の年を来させる。それゆえ、わたしはお前を諸国民の嘲りの的とし、すべての国々の笑いものとする』」(1~4節)。
では、その「血」は一体どのようにして流されたのだろうか。それは、倫理的堕落によって流された「血」である。またそれは、信仰的堕落によって引き起こされた「流血」を意味していた。
ユダとエルサレムでは、「父と母」が「軽んじられ」、「他国人は虐げられ」、「孤児や寡婦」は「苦しめられ」続けていた(7節)。また、姦淫や性的堕落が蔓延ると共に、「賄賂を取」る者や、「高利を取って」貪る金貸しが横行していた。このように、倫理的な退廃と混乱は、既に限界に達していた。
しかし、それは単なる倫理感や正義感の欠如ではない。そのような堕落の根底には、主なる神への畏れと信仰の欠如があった。つまり、人々が主なる神に聞き従う信仰から離れ、主なる神の戒めが無視されるようになったところに根本的な原因があった。信仰と倫理は深い絆で結ばれている。
主イエス・キリストが全ての人をご自分の命を献げるほどに愛されたからこそ、私達は弱さの中にある人を蔑ろにしてはならない。義と愛の神を畏れ敬う信仰の上にこそ、正義は保たれる。そして、聖なる神を愛する信仰から、真に清い歩みが生まれる。
社会制度の改革も大切だが、そこにはやはり限界がある。天地の造り主であり、善悪の源である主なる神への深い信頼と従順を伴う信仰こそが、真に人と社会をつくり変える土台とならなければならない。
西原新生バプテスト教会
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