ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 アモス書6章

聖書日課 アモス書6章(新共同訳 旧約pp.1436-1437)

 新共同訳における本章の見出しは「驕れる人々への審判」である。前章までの内容に続いて、ここでもイスラエルの罪に対する主の裁きの預言が語られている。

 その中で、2節のカルネは、北アラムの首都で、紀元前738年にアッシリアによって征服された。ハマト・ラバも同様に、紀元前720年に陥落した。そして、ペリシテのガトも、紀元前711年にアッシリア軍によって陥落した。

 こうして、強国アッシリアによって滅ぼされた町々を示した後、アモスイスラエルの人々に向かって問うた。「お前たちはこれらの王国にまさっているか」(2節)と。

 この問いかけは、滅びが目の前に迫っていながら、「自分達は特別な神の民だから大丈夫! 滅びる筈はない」と考えて、酒宴に興じ続け、安逸を貪っていたイスラエルの人々に対して語られた言葉である(4~7節)。

 当時イスラエルは、ヤロブアム2世の時代にもたらされた繁栄の余韻の中にあった。そのため、彼らは、主なる神の選民であるという特権意識に安んじて、神の民とされた目的を全く忘れてしまっていた。その目的とは、彼らが世界の光となって、全世界に主なる神の救いをもたらすことである。彼らはこのことを忘れ、自分を楽しませることばかり考えて生きていた。

 これは現在の神の民であるキリスト者も陥り易い問題ではないだろうか。主なる神によって救われた、癒された、赦されたという恵みと祝福を喜び楽しむのは素晴らしいことである。しかし、その一方で、自分達に期待されている役目を果たすことにはとても消極的であるということはないだろうか。そもそも私達は、救われた者としての目的を、どれほど深く理解し、どれほど真剣に追及しているだろうか。

 私達が素晴らしいから選ばれたのではない。私達を通して、御業を成し遂げ、御栄光を現すために、主なる神は私達を選び、救われたのである。この目的を忘れる時、私達にも、いにしえのイスラエルと同じ結果が待っていることを決して忘れてはならない。