ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 アモス書8章

聖書日課 アモス書8章(新共同訳 旧約pp.1439-1440)

 第四の幻は夏の果物の幻である(1~3節)。この「一籠の夏の果物(カイツ)」はよく熟していた。それはイスラエルの罪が熟して、彼らの最後が近づいていることを示していた。

 主なる神は、はっきりと「わが民イスラエルに最後(ケーツ)が来た。もはや、見過ごしにすることはできない」と語られた(2節)。ところが、イスラエルの民は、そのような主なる神の御声など全く聞こうともせず、不正な商売に明け暮れ、「貧しい者を踏みつけ/苦しむ農民を押さえつけ」(4節)ていた。

「お前たちは言う。『新月祭はいつ終わるのか、穀物を売りたいものだ。安息日はいつ終わるのか、麦を売り尽くしたいものだ。エファ升は小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使ってごまかそう。弱い者を金で、貧しい者を靴一足の値で買い取ろう。また、くず麦を売ろう』」(5~6節)

 このように、イスラエルの民の関心と言えば、儲けることばかりであった。彼らは、目に見える地上のことで頭も心も一杯で、主なる神も主なる神の教えも二の次、三の次だった。そして、遂にそのような彼らの前に終わりの日が近づいていた。

「その日が来ると、と主なる神は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ/白昼に大地を闇とする」(9節)

「その日」は「苦悩に満ちた日」(10節)となり、大地に飢えが送られる(11節)。しかし、彼らの苦悩と飢えは、単にパンや水に飢え渇く苦しみではない。「主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇き」(11節)であった。つまり、それは霊の飢え渇き、魂の苦悩の時である。人々が、目に見える地上のことだけに明け暮れ、主なる神の御声と主なる神の御心を無視し続ける時、最後には主の言葉そのものが取り去られてしまう。真の暗闇、真の苦悩はそこにある。

 それから2千数百年の時を超えて、アモスが語った主の言葉は今、私達に鋭く迫って来るのを感じる。私達の問題の根源は、主の御言葉を聞くことが出来ない飢えと渇きにあるのではないか。