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沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 エゼキエル書35章

聖書日課 エゼキエル書35章(新共同訳 旧約pp.1353-1354)

 35章には、エドムに対する裁きの預言が記されている。「セイル山」エドムにある山で、エドムを指して使われている。エドムに対しては、25章でも同様の預言が記されている。しかし、ここではイスラエルの回復の預言が語られる中で、イスラエルにとって脅威であった周辺諸国の代表とも言えるエドムが、主なる神の裁きによって滅ぼされることが語られている。

「わたしはセイル山を荒れ果てた廃虚とし、行き来する者がないようにする。わたしは山々を殺された者で満たす。お前の丘にも谷にも、あらゆる谷間にも、剣で殺された者が倒れる。わたしはお前を永久に荒れ果てた地とする。お前の町々には住む者がなくなる。そのとき、お前たちは/わたしが主であることを知るようになる。それはお前が、『この二つの国、二つの土地はわたしのものとなる。我々はそれを占領する』と言ったからである。しかしそこに、主がおられた」(7~10節)。

 エドムは、ヤコブの双子の兄エサウの子孫である。イスラエル人の近親であったにもかかわらず、彼らは、イスラエルがバビロンの攻撃を受けた時、バビロンに協力してエルサレムを攻撃した。彼らは、イスラエルとユダを自分達のものにしようと企んでいた(10節)。彼らはイスラエル「果てしない敵意を抱き、イスラエルの子らが災いに遭い、最後の刑罰を受けたとき、彼らを剣に渡した」(5節)。

 しかし、彼らの企ては実現しなかった。何故なら、「そこに、主がおられた」からである(10節)。イスラエルの主が、そこにおられ、エドムの憎しみと貪欲に対して裁きをもって報いられた。

「それゆえ、わたしは生きている、と主なる神は言われる。お前が彼らを憎んで行った怒りとねたみに応じて、わたしもお前に行う。わたしがお前を裁くとき、わたしは彼らに知られるようになる」(11節)。

 たとえ憎しみと「ねたみ」をもって神の民を攻撃しようとする者がいたとしても、イスラエルを愛する主がそこにおられ、彼らの企てを失敗に終わらせる。そして、その憎しみと「怒りとねたみに応じて」、彼らに裁きを下される。

「しかしそこに、主がおられた」…これは、主を愛する者にとっては希望のしるしであり、主なる神に敵対する者にとっては、失敗と滅びのしるしである。

「わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ」(使徒言行録18章10節)。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119

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