聖書日課 箴言28章(新共同訳 旧約pp.1027-1028)
「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか』。彼は答えた。『あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから』」(創世記3章8~10節)。
これはアダムとエバが罪に陥った日の出来事である。その日以来、人は皆主なる神を恐れて、御「顔を避け」るようになった。そして、人は次第に主なる神の存在すら忘れ去り、罪を罪とも思わなくなっていった。
しかし、主なる神は、罪に陥ったアダムとエバのところにやって来て、「どこにいるのか」と呼びかけられた。主なる神は、罪に陥り、御「顔を避けて」「逃げ」ようとする者を、なお捜し求められる。
「神に逆らう者は追う者もないのに逃げる。神に従う人は若獅子のように自信がある」(1節)。
ところが、罪に陥った私達は、それでも主なる神を「避け」、主なる神から「逃げ」ようとする。それは、自分自身の真実と向き合うことへの恐れかも知れない。しかし、どんなに「逃げ」ても誤魔化しても、真の平安はない。それどころか、「逃げ」れば「逃げる」ほど、恐れと不安は深くなるだろう。真の平安と確信は、主なる神に聞き従うことによってのみ得られるものだからである。
「罪を隠している者は栄えない。告白して罪を捨てる者は憐れみを受ける。いかに幸いなことか、常に恐れを抱いている人。心の頑な者は苦難に陥る」(13~14節)。
何故「恐れを抱」くことが「幸い」なのだろうか。「恐れ」があるからこそ、私達は主なる神の御前にひれ伏し、赦しと癒しを祈り求めるようになるからである。もし「罪」に陥っても何の「恐れ」もなければ、私達は滅びるしかない。そういう意味では、「恐れ」は主なる神の警告の声であり、私達を赦しと救いに導く声でもある。この時大切なのは、心を頑なにせずに、主なる神に依り頼み、御声に聞き従うことである。真の平安と確信はそこから生まれる。
西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00
〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119
メールアドレス