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沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 エゼキエル書8章

聖書日課 エゼキエル書8章(新共同訳 旧約pp.1305-1306)

 8章には、エゼキエルが見たエルサレム神殿の幻が記されている。「第六年の六月五日」とあるのは(1節)、エゼキエルが捕囚となって6年目であろうと思われる。その頃、エルサレムにはまだ神殿が残されており、礼拝が献げられていた。

 ところが、エゼキエルがその幻の中で見たのは、「偶像」を拝む人々の姿だった(10節)! イスラエルを愛し、イスラエルと共にいて、彼らを導き、守り、繁栄を与えてきた真の神の臨在が満ち溢れているべき神殿で、彼らは「偶像」を取り入れて礼拝していた。そして、人々は口々にこう言い合っていた。「主は我々を御覧にならない。主はこの地を捨てられた」と(12節)。

 本当は、イスラエルの人々の方が、自分達を選び、愛して下さった主なる神を捨て去った。そして、彼らが主なる神を見ていないので、主なる神が「御覧にな」っていないと決めかかっていた。

 人間は、自分が相手に対して取っている態度によって、相手が自分に対して取っている態度を判断することがある。つまり、自分自身のことは全く見えないまま、いつも誰かのせいにして自分を正当化しようとする。それは、罪に陥ったアダムがその罪をエバのせいにし、エバは蛇のせいにしたのと同じである。

 責任転嫁と自己正当化。それは主なる神と人、人と人の間の平和な交わりを妨げる罪である。この罪の悪循環を断ち切る道はただ一つ! 主の御前での真実な悔い改め以外にない。そのために、もうじき主の怒りが下り、エルサレムは裁きを受けることになる。それがエゼキエルの見た幻のメッセージである。

「高く、あがめられて、永遠にいまし/その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み/打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり/へりくだる霊の人に命を得させ/打ち砕かれた心の人に命を得させる」(15節)。

「彼はわたしに言った。『人の子よ、見たか。ユダの家がここで数々の忌まわしいことを行っているのは些細なことであろうか。彼らはこの地を不法で満たした。また、わたしの鼻に木の枝を突きつけて、わたしを更に怒らせようとしている。わたしも憤って行い、慈しみの目を注ぐことも、憐れみをかけることもしない。彼らがわたしの耳に向かって大声をあげても、わたしは彼らに聞きはしない』」(17~18節)。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119

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