聖書日課 詩編118編(新共同訳 旧約pp.957-958)
第118編は、人を「恐れ」ず主なる神に信頼することを勧める詩であり、信頼に応えて下さる主なる神をほめたたえる〈賛美の詩編〉でもある。今日は、この中の一つの御言葉に目を留めたいと思う。
「家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった。これは主の御業/わたしたちの目には驚くべきこと。今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを」(22~25節)。
これは、新約聖書において、イエス・キリストがたとえ話の中で引用された箇所として知られている(マタイによる福音書21章33~44節)。
建築途中の立派な家がある。ところが、その家の土台を見ると、一番肝心な支えとなる土台石が据えられていない! 一体どうしたことか? 慌てて目をやると、土台となるべき石が、大工によって脇に除けられたままになっていた。
この退けられた石こそが、主イエス・キリストである。イエス・キリストは、当時の政治的・宗教的指導者――彼らが「家を建てる者」である――によって文字通り退けられ、十字架につけられて殺された。ところが、イエス・キリストは、3日目に死を打ち破って復活し、罪の赦しと永遠の命に至る道を開いて下さった。こうして、捨てられた石であるイエス・キリストは、救いの家の「隅の親石」となって下さった。
人間の目には、とても役に立ちそうもないように見えた石が、家を支える土台石となる…。或る意味で、イエス・キリストは、今も多くの人々にとって、何の役にも立たない古びた石のように退けられている。しかし、本当は、そのイエス・キリストこそが、最も大切な、人生を支える土台、命を支える「隅の親石」となる方である。
そして、このイエス・キリストを人生の土台石として迎え入れ、その上に自分の人生を築いていく時、私達も、この詩人と共にこう告白することが出来る。
「主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。人間がわたしに何をなしえよう」(6節)。
祈り
愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの憐れみと赦しの中に置き、御前に引き出し、祈りを献げさせて下さることを心から感謝致します。
主よ、あなたの御子イエス・キリストは人から捨てられました。いいえ、私も御子を否定し、自分勝手な道を歩いていました。
しかし、主よ、御子イエス・キリストはこのような私を見捨てず、逆にこの存在を支える「隅の親石」、心の暗闇を照らす光となって下さいました。
あなたに直接繋がる者として下さったのは御子イエス・キリストです。御子が握って下さったからです。
主よ、あなたとの関係を喜びながら、今日一日大切に生きることが出来ますよう、導いて下さい。
あなたの子供お一人お一人を今日も支え、お一人お一人にあなたの声を掛け、直接お導き下さいますよう、お願い致します。
感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
西原新生バプテスト教会
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