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沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

主日礼拝宣教 2021年11月14日

主日礼拝宣教 2021年11月14日
詩編4編1~9節(新共同訳 旧約pp.836-837)
「人生の秘儀」

1. 平和のうちに眠ります

「平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。主よ、あなただけが、確かに、わたしをここに住まわせてくださるのです」(9節)。

 本日は、イエス・キリストを主と信じ、先に眠りにつかれた兄弟姉妹を記念して、主なる神に礼拝をお献げしている。主にある兄弟姉妹は、ダビデのように、永遠の平和を主なる神から賜り、やがて来るべき復活の日を待ち望んでおられることだろう。そして、私達もまた、死の床において「確かに、わたしをここに住まわせてくださる」と主なる神に申し上げることが出来る者としていただきたいと願っている。
 では、ダビデはどうしてこのような「平和」を得ることが出来たのだろうか。

2. むなしさと偽りからの解放

「人の子らよ/いつまでわたしの名誉を辱めにさらすのか/むなしさを愛し、偽りを求めるのか」(3節)。

 ダビデを取り巻いていたのは「むなしさを愛し、偽りを求める」人達だった。ダビデも、このような人々の敵意に晒され、平安を失っても不思議ではなかった。しかし、彼は、自分を辱め、傷つける人々に動揺するどころか、彼らに「おののいて罪を離れよ。横たわるときも自分の心と語り/そして沈黙に入れ。ふさわしい献げ物をささげて、主に依り頼め」と強く勧めている(5~6節)。
 苦しい状況に置かれても、自分に敵対する者を前にしても、ダビデがなお「平和のうちに身を横たえ」、眠ることが出来たのは何故だろうか。彼が強い人間だったからだろうか。そうではない。彼は自分の罪深さをよく知っていた。しかし、彼は、主なる神との交わりの中で、罪の支配から解放され、勝利を得ることが出来た。私達は、過去の誤りをどんなに悔やんでも、救いを得ることは出来ない。ただ、主なる神のもとに立ち帰り、主に依り頼む者としていただく時にのみ、罪の支配から解放される。
 だから、ダビデは自分に敵対する人々にさえ、自分の心と対話して、主なる神に祈り、「罪を離れよ」と告げている。主なる神に献げるべき「ふさわしい献げもの」とは犠牲ではない。厳しい修道生活でもない。善い行いでもない。主なる神が私達に求められるのは「打ち砕かれた霊」(詩編51編19節)、悔い改めて、主なる神に依り縋る心である。
 私達は悔い改めることにおいてすら、自分の力で何とかしようともがき苦しむ。しかし、ダビデにとっては、主なる神に立ち帰ることは、自分の決心や努力によって出来ることではない。ただ、心から謙って、主なる神に全てをお委ねすることであった。それが信仰によって与えられる「平和」である。
 ダビデ「主の慈しみに生きる人」であった。主なる神が御名を「呼び求める声を聞いてくださる」ことを疑わない人であった(4節)。主なる神が自分の全てをご存知であることを信じ、祈る人であった。

「主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り/遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け/わたしの道にことごとく通じておられる。わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに/主よ、あなたはすべてを知っておられる。前からも後ろからもわたしを囲み/御手をわたしの上に置いていてくださる。その驚くべき知識はわたしを超え/あまりにも高くて到達できない」(詩編139編1~6節)。

 自分の人生を自分の力で何とかしようとする時、私達は最後に行き詰まる。自分の力で出来ていたことが出来なくなる日がやがてやって来るからである。そして、最後に残されるのが死である。私達はそこで最終的な限界に突き当たる。

3. 御顔の光を向けて下さい

 主なる神を知り、この御方に依り頼む人は、自分にとって理解出来ない苦しみや困難に遭遇しても、行き詰まることはない。私達の全てを知っておられる方は「恵みを示す者」だからである。恵みとは人間の限界を超えて主なる神が働いて下さることである。今置かれている状況が耐え難いものであっても、主なる神が全てをご存知であり、最善の解決に導いて下さると信じることが出来る人は幸いである。その人は、自分の全ての力が尽きても、なお全能者である主なる神に依り頼むことが出来るからである。

「恵みを示す者があろうか、と多くの人は問います。主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください」(7節)。

 ダビデが第一に求めていたのは、与えられた問題や試練に対し、主なる神から直ちに答えや解決を得ることではなかった。主なる神の「御顔の光」によって照らしていただくことであった。ダビデは、主なる神が「恵みを示す者」であられ、彼に悪を為すことは決してないと信じていた。だから、今は分からないこと、納得出来ないこと、耐えられないことがあっても、彼は主なる神を求め、御言葉に飢え渇いて主の御前に出た。主なる神の愛の光の中で生かされる者には、この世のあらゆる喜びに優る喜びが与えられる。

「人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。それにもまさる喜びを/わたしの心にお与えください」(8節)。

 確かに、私達の人生において、物質的な豊かさ、健康の豊かさ、人間関係の豊かさは、大きな喜びをもたらす。しかし、私達はそれらを手放さなければならない時が必ず来る。先に召された、私達の愛する兄弟姉妹にもその日が来た。彼らはその時、主なる神に「それにもまさる喜びを/わたしの心にお与えください」と祈られたことだろう。
 死は私達の人生の秘儀の中でも最後の秘儀である。しかし、主なる神を信じる者にとっては、最高の喜びをいただく時、永遠の平和を与えられる時である。

4. イエス・キリストによる平和と希望

 主なる神は、ダビデに与えた「平和」を、私達全てに与えるために、御子イエス・キリストをこの世に送って下さった。

「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」(ローマの信徒への手紙5章1~2節)。

 この「平和」は、私達が自分の努力や精進によって獲得するものではない。主なる神が一方的に示して下さった恵みである。御子イエス・キリストは十字架にかかり、私達の罪を贖って下さった。御子イエス・キリストの故に、主なる神は私達の罪を全て赦し、私達をご自分の子として下さる。私達が今まで主なる神を退けて生きてきたとしても、主なる神は、私達が立ち帰ることを待ち続けて下さっている。
 西原新生バプテスト教会は、来年伝道開始から50年を迎える。イエス・キリストを主と信じ、先に眠りにつかれた兄弟姉妹について、私達は何も知らないどころか、会ったことすらないかも知れない。しかし、一つ確かなことがある。それは、先に眠りにつかれた兄弟姉妹が、御子イエス・キリストの血潮の故に主なる神との平和を与えられ、今も永遠の平和の中に置かれているということである。

「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかも知れません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです」(ローマの信徒への手紙5章6~10節)。

 だから、愛する兄弟姉妹の救いについて私達が心配する必要は一切ない。彼らの救いは彼らの正しさではなく、ただ御子イエス・キリストの血潮によるものだからである。
 同様に、私達の救いも主なる神の恵み以外の何ものにもよらない。私達の人生は死をもって終わるものではない。御子イエス・キリストによって私達を子として受け入れて下さった主なる神のもとに帰ることが、私達の人生の目的である。その日がいつ来るか、誰も知らない。しかし、この弱さと罪に満ちた人生においても、これほど素晴らしい救いの恵みを与えていただいたのだから、私達が主なる神のもとに召される日は、どんなに光栄な日となることだろう。

祈り
 愛する天のお父様、今日、私達は先にあなたの御許に召された兄弟姉妹を覚えながら、御言葉をいただきました。あなたは私達を創り、この世に命を与えて下さいました。あなたが御子イエス・キリストによって与えて下さった平和がなければ、この地上でどんな喜びを得ようとも、私達の人生は空しいものでした。どうか主よ、私達からあらゆる恐れと不安を取り除き、ただあなたが与えて下さった平和の中に生き続けさせて下さい。やがて愛する兄弟姉妹とあなたの御前で再会し、永遠の平和を与えていただく日が来ることを堅く信じて生きる者として下さい。また、私達の残りの人生において何が起ころうとも、与えられた平和と喜びを持ち続けることが出来ますよう、私達一人一人を聖霊で満たして下さい。感謝して、主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。