バプテスマ準備クラス 2022年2月2日
イエス・キリスト(3)
「イエス・キリストは神のひとり子であり、真の神であり、真の人であります。イエス・キリストは聖霊によって処女マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、三日目に復活し、天にあげられ神の右に座し、私たちのためにとりなし、再び来られ、生ける者と死せる者を裁かれる主であります」
今日は、信仰告白の「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」という箇所から、イエス・キリストの苦難の意味、十字架の意味について確認したい。
「ポンテオ・ピラト」というのは、イエス・キリストを処刑したローマ帝国の総督である。ピラトについては、『ユダヤ戦記』という歴史書の中にも言及が見られる。しかし、彼に関する記録の一切が歴史の中に埋もれて忘れられてしまったとしても、イエス・キリストを十字架に引き渡した人物として、福音書の中に永遠にその名を残すことになった。
イエス・キリストが「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」たという時、そこには二重の意味がある。
目に見える現実としては、イエス・キリストは、ピラトの下で裁かれ、十字架刑を言い渡された。しかし、ピラト自身は「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と繰り返し明言している(ルカによる福音書23章4節、14~15節、22節、ヨハネによる福音書19章4節、6節)。そうだとすれば、ピラトの死刑判決はインチキだということになる。「十字架につけろ」と叫び立てる民衆に迎合して、罪のない方を罪に定めたことになる。
けれども、そこではもう一つの目に見えない裁きが行われていた。人間の手による出鱈目な裁きを用いて、主なる神の裁きが行われた。私達人間が受けるべき主なる神の裁きが、十字架刑として罪のない「神のひとり子」に下った。イエス・キリストは、全ての人間の罪を贖うために、主なる神の御心に従って「十字架につけられ」た。
また、ここで〈十字架〉につけられたと述べられていることの意味も、しっかりと心に刻んでおく必要がある。それは主なる神に呪われたということを意味する。その背景には律法の規定がある。
「ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた者は、神に呪われたものだからである。あなたは、あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を汚してはならない」(申命記21章22~23節)。
当時ユダヤ人の社会で一般に行われていた死刑の方法は、石打ちの刑だった。しかし、イエス・キリストは、十字架につけられて死なれた。
それ故、ユダヤ人は、木にかけられて死んだイエスという男は、主なる神に呪われている、そのような人間を「神のひとり子」、救い主(キリスト)として宣べ伝えるのは、主なる神に対する冒瀆であると批判した。それに対し、使徒パウロは、この批判をそのまま引き受けながら、次のように切り返している。
「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです」(ガラテヤの信徒への手紙3章13節)。
確かに、イエス・キリストは十字架にかけられて殺された。主なる神に呪われた。しかしそれは、本来私達が受けるべき呪いを、御子が代わって受けて下さったということに他ならない。パウロは、ユダヤ人の非難をまっこうから受けて立ち、その主張を逆手にとって、福音の真理を鮮明に描き出した。
主なる神は〈義〉なる方である。だから、私達の罪を決して見過ごさず、容赦のない怒りを現される。
「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます」(ローマの信徒への手紙1章18節)。
ここで十字架の場面を思い起こしていただきたい。十字架につけられたイエス・キリストを、人々は「神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう」と罵った(マタイによる福音書27章40節、42節)。しかし、もしイエス・キリストが十字架から降りてしまったら、主なる神に裁かれるべき私達の罪はそのまま残る。私達自身が、自らの罪の故に、主なる神の激しい怒りによって裁かれ、滅びるほかない。
だが、主なる神は〈愛〉なる方でもある。それ故、怒りを私達の上にではなく、御子の上に下された。私達が受けるべき主なる神の怒りと罪の裁きを、イエス・キリストが代わりに引き受けて下さった。イエス・キリストは、十字架から降りないことによって、私達の救いを全うして下さった。
また、十字架上のイエス・キリストの叫びがしばしば問題になる。
「三時にイエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」(マルコによる福音書15章34節)。
キリスト教に反対する人は、こんな情けない叫びを上げて死んでいった人間が救い主である筈がないと言って、格好の攻撃材料にしてきた。しかし、イエス・キリストは、私達の代わりに主なる神から見捨てられた。命の源である主なる神から引き離されるという絶望を味わい尽くされた。
私達は、主なる神が私達を愛して下さっているというメッセージを教会で繰り返し聞く。しかし、そこで忘れてはならないことがある。それは、私達が主なる神に受け入れられるために、イエス・キリストが、私達が受けるべき主なる神の怒りを、私達に代わって一身に受け、苦しみを負われたことである。御子イエス・キリストが、十字架の上で完全に贖いを成し遂げて下さったからこそ、私達は永遠の刑罰から解放され、私達に主なる神の恵みと義と永遠の命がもたらされた。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハネによる福音書3章16~17節)。