主なる神に対して驕り高ぶる悪人が「安泰」であるのに、主なる神に従う善人が「苦しみ」つつ生きるという現実を見て、「わたしは驕る者をうらやんだ」と作者は記している。
「【賛歌。アサフの詩。】神はイスラエルに対して/心の清い人に対して、恵み深い。それなのにわたしは、あやうく足を滑らせ/一歩一歩を踏み誤りそうになっていた。神に逆らう者の安泰を見て/わたしは驕る者をうらやんだ。死ぬまで彼らは苦しみを知らず/からだも肥えている。だれにもある労苦すら彼らにはない。だれもがかかる病も彼らには触れない。傲慢は首飾りとなり/不法は衣となって彼らを包む」(1~6節)。
潔白に生きようとしている自分は、病に倒れ、懲らしめを受けている。ところが、「神に逆らう者」は「死ぬまで」「苦しみを知らず/からだも肥えている」。これは一体どういうことだ! 私達も、そのような憤懣と疑いの思いに苛まれることはないだろうか。しかしこれは、主なる神に従って生きようとする人だからこその思いかも知れない。
そのような経験について、この詩の作者は「わたしは、あやうく足を滑らせ/一歩一歩を踏み誤りそうになっていた」と言っている。つまり、これは私達が罪の支配するこの世のことで頭と心が一杯になってしまう時に湧き起こってくる悪への誘いの思いである。
しかし、作者はこの時、自分の目をこの世から天の神に向け直した。
「わたしの目に労苦と映ることの意味を/知りたいと思い計り/ついに、わたしは神の聖所を訪れ/彼らの行く末を見分けた/あなたが滑りやすい道を彼らに対して備え/彼らを迷いに落とされるのを」(16~18節)。
「見よ、あなたを遠ざかる者は滅びる。御もとから迷い去る者をあなたは絶たれる」(27節)。
「神に逆らう者」、「驕る者」は必ず「滅びる」、それが主なる神の答えだった。そして、作者は、この世における真の「幸い」を見出して言った。
「わたしは、神に近くあることを幸いとし/主なる神に避けどころを置く。わたしは御業をことごとく語り伝えよう」(28節)。
主なる「神に近くあること」、これこそ聖書の教える幸福の源である。
祈り
愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日も御前に引き出し、御傍近くに引き寄せ、礼拝させて下さることを、心から感謝致します。
主よ、あなたこそ私の全てです。天にも地にもあなたのほかにこの存在が依り頼むべきものはありません。
私達はこの世の人生で痛み、苦しみ、揺さぶられますが、あなたが握って下さいます。あなたが私達の存在の基盤となって下さる。これに勝る祝福があるでしょうか。
私達を苦しめる一つ一つのことについても、あなたにお委ねします。私達は、あなたを礼拝することだけに心を注ぐことが出来ますように。あなたの光を求めることが出来ますよう、助け導いて下さい。
苦しみの中、痛みの中にある兄弟姉妹を顧みて下さい。どうか傍にいて支え、今日もあなたを礼拝することが出来ますよう、助けて下さい。御手の中に全てのことを委ねることが出来ますよう、お導き下さい。
感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00
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