命の危機が迫る中で、ダビデは、「至聖所に向かって手を上げ」て「叫び」祈った。そして、祈りこそが信仰者の「力」であり、「助け」であり、「喜び」と「感謝」をもたらす鍵であることを確信し告白した。それがこの第28編である。
「【ダビデの詩。】主よ、あなたを呼び求めます。わたしの岩よ/わたしに対して沈黙しないでください。あなたが黙しておられるなら/わたしは墓に下る者とされてしまいます。嘆き祈るわたしの声を聞いてください。至聖所に向かって手を上げ/あなたに救いを求めて叫びます。神に逆らう者、悪を行う者と共に/わたしを引いて行かないでください。彼らは仲間に向かって平和を口にしますが/心には悪意を抱いています。その仕業、悪事に応じて彼らに報いてください。その手のなすところに応じて/彼らに報い、罰してください。主の御業、御手の業を彼らは悟ろうとしません。彼らを滅ぼし、再び興さないでください。主をたたえよ。嘆き祈るわたしの声を聞いてくださいました。主はわたしの力、わたしの盾/わたしの心は主に依り頼みます。主の助けを得てわたしの心は喜び躍ります。歌をささげて感謝いたします。主は油注がれた者の力、その砦、救い。お救いください、あなたの民を。祝福してください、あなたの嗣業の民を。とこしえに彼らを導き養ってください」(1~9節)。
主なる神が「嘆き祈るわたしの声を聞いてくださ」ったという実感を得るまで、祈ったことがあるだろうか。それは、決して〈祈り倒す〉と言われるようなことではない。寧ろ、倒され変えられるのは、私達自身である。
祈り始めると、色々な思いが浮かんできて、なかなか祈りに集中出来ないということがある。主なる神はこの祈りを本当に聞いて下さっているのだろうか。あのことが、このことが気になって、どう祈ったらよいか分からない。とても確信など得られそうもない…。祈りはそのような葛藤との戦いであることが多い。
それでもなお、主なる神の御名と助けを呼び求め、主なる神の御前に立ち続けるなら、やがて私達の心の中に、静かで優しい御声が聴こえてくる。それは、私達の心が静められたことによって聴こえてくる主なる神の語りかけの声である。その時、私達は確かに実感することだろう。「主なる神は私の祈りを確かに聞いて下さった! そして、主なる神は私と共に今ここにおられる!」と。
西原新生バプテスト教会
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