「神に逆らう者」の繁栄や行動を見て、怒りや不満が湧いて来て、つい呟きや不平の言葉が口を突いて出てしまうということはないだろうか。「あんなことが許されていいものか! あんな奴、滅びればいい!」と罵りの言葉を吐いてしまうのである。
ダビデは、そのような自分を制して、「口にくつわをはめておこう」とした。しかし、ただ黙っていても苦しみは募るばかりだった。遂に彼はその思いを主なる神に向かって話し出した。ここにダビデの信仰を見ることが出来る。
「わたしは言いました。『わたしの道を守ろう、舌で過ちを犯さぬように。神に逆らう者が目の前にいる。わたしの口にくつわをはめておこう。』わたしは口を閉ざして沈黙し/あまりに黙していたので苦しみがつのり/心は内に熱し、呻いて火と燃えた。わたしは舌を動かして話し始めた。『教えてください、主よ、わたしの行く末を/わたしの生涯はどれ程のものか/いかにわたしがはかないものか、悟るように。』御覧ください、与えられたこの生涯は/僅か、手の幅ほどのもの。御前には、この人生も無に等しいのです。ああ、人は確かに立っているようでも/すべて空しいもの。[セラ ああ、人はただ影のように移ろうもの。ああ、人は空しくあくせくし/だれの手に渡るとも知らずに積み上げる。主よ、それなら/何に望みをかけたらよいのでしょう。わたしはあなたを待ち望みます」(2~8節)。
苦しい時や怒りに駆られる時、それを人に向かってぶつけるのではなく、主なる神に向かってぶつけることは、「わたしの道を守」るためにとても大切なことである。
ダビデは、主なる神への祈りの中で、「人生」の「空し」さと「はかな」さを確認した。そして、「主よ、それなら/何に望みをかけたらよいのでしょう。わたしはあなたを待ち望みます」と主なる神への信仰を改めて告白した。この世の「はかな」さ、「空し」さを真に満たすことが出来るのは、主なる神の愛とそのご臨在の他にない。空しさを知れば知るほど、主なる神への信仰がより一層深くなる。ここに信仰の大逆転がある。
祈り
愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの溢れる憐れみと絶大な慈しみの中に置き、御前に引き出して下さったことを心から感謝致します。
主よ、あなたは「この人生、一人で歩かなくてよい。わたしが共にいる」と語って下さいます。私は、あなたに何と感謝したら良いのでしょう。
あなたがいなければ、暗い光のない谷底を歩くような人生です。しかし、あなたが共にいて下さるから、そこに光が満ち溢れます。
苦しいことはあります。辛いこともあります。倒れることも。しかし、主よ、あなたが傍にいて下さる。この思いを知って下さっている。そして、あなたの時の中でその一つ一つにお答えを下さる。
主よ、あなたが共にいて下さる私は、何と幸いな者でしょう。何と祝福されていることでしょう。あなたを心からほめたたえます。
主よ、どうかあなたの御言葉に耳を傾けるお一人お一人の傍にいて下さい。傍にいて下さっていることが分かるように、お一人お一人の霊の目、霊の耳を開いて下さい。そして語りかけて下さい。「わたしが共にいる。あなたは一人ではない」と。あなたの光によって溢れるように満たして下さいますように。
感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
西原新生バプテスト教会
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