聖書日課 ヨブ記27章(新共同訳 旧約pp.808-809)
ヨブと3人の友人達の議論は終わった。友人達は皆、口をつぐんだ。そこで、ヨブは、議論を締め括るように、最後にもう一度自分の考えを述べた。27~31章はヨブの最後の弁論である。
「ヨブは更に言葉をついで主張した。わたしの権利を取り上げる神にかけて/わたしの魂を苦しめる全能者にかけて/わたしは誓う。神の息吹がまだわたしの鼻にあり/わたしの息がまだ残っているかぎり/この唇は決して不正を語らず/この舌は決して欺きを言わない、と。断じて、あなたたちを正しいとはしない。死に至るまで、わたしは潔白を主張する。わたしは自らの正しさに固執して譲らない。一日たりとも心に恥じるところはない」(1~6節)。
この中で、ヨブは、あくまでも「自分の正しさに固執し」、身の「潔白を主張」している。それは、友人達との議論を通してますます強くなっていった確信だった。そしてそれは、ヨブの受けた苦難に関して言えば、確かに正しいことだった。
しかし、それと同時に、ヨブの言葉には主なる神に対する不満と非難の思いが明らかに表されている。「わたしの権利を取り上げる神にかけて/わたしの魂を苦しめる全能者にかけて/わたしは誓う」という言葉には、どこまでも主なる神の権威と誠実の上に信頼を置く信仰と共に、自分の受けた苦難について主なる神が全く沈黙しておられることに対する不満と非難の思いが見られる。ここに信仰者ヨブの苦しみの本質があった。
更に、ヨブは、友人達にも非難の言葉を語った(7~23節)。いや、それは単なる非難ではなく、警告の言葉とも言えるかも知れない。ヨブとの再三にわたる議論にもかかわらず、ヨブの信仰とその苦しみの意味を全く理解しようとしない友人達に、ヨブは「神を無視する者にどんな望みがあろうか」と警告した(8節)。
ところが、その警告の内容は、「神に逆らう者」の上に臨む災いという、これまで友人達がヨブに語ってきた内容と同じものだった(13~23節)。それは、真の神との交わりを知らない友人達こそ、自ら語った災いを受けることになるという、ヨブの確信による警告の言葉であった。
苦難と、信仰の揺らぎと、確信…ここには確かに重要な繋がりがある。
「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(ローマの信徒への手紙5章3~4節)。
西原新生バプテスト教会
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