聖書日課 ヨブ記28章(新共同訳 旧約pp.810-811)
28章は〈知恵の賛歌〉と呼ばれ、主なる神の「知恵」について記されている。これまでのヨブの激しい論調とは違い、「知恵」とは何か、「知恵」はどこから得られるのかということが落ち着いて丁寧に述べられている。
まず1~11節で、人間は金銀宝石を必死に探し求めるものであることが述べられている。人は自分にとって「価値あるものを見落とすことはない」(10節)。
では、「知恵」や「分別」についてはどうだろうか。「知恵」や「分別」はどこに見出されるのだろうか。ヨブは言う。
「では、知恵はどこに見いだされるのか/分別はどこにあるのか。人間はそれが備えられた場を知らない。それは命あるものの地には見いだされない」(12~13節)。
「知恵」と「分別」を得ることは、金銀宝石を手に入れることよりも遥かに難しいというのである。「知恵は純金によっても買えず、銀幾らと価を定めることもできない」貴重なものである(15節)。
では、「知恵」と「分別」はどこから得ることが出来るのだろうか。ヨブは言う。
「その道を知っているのは神。神こそ、その場所を知っておられる」(23節)。
何故なら、主なる神は、この世界を造り、「地の果てまで」の全てをご存知であり(24節)、また全てを動かしておられる方だからである。
それ故、人が「知恵」と「分別」を得るのは、全てを支配しておられる主なる神からであって、「知恵」は、主なる神との交わりの中でこそ得られるものである。即ち、人間にとって「知恵」とは、その源である「主を畏れ敬うこと」であり、「分別」とは、「主を畏れ敬」って、「悪を遠ざけること」である(28節)。
一方、ヨブの友人達にとっての「知恵」は、人生における繁栄と富を得るためのものでしかなかった。ここにも彼らの議論が全く嚙み合わない原因の一端があった。
「主を畏れることは知恵の初め/聖なる方を知ることは分別の初め」(箴言9章10節)。
西原新生バプテスト教会
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