聖書日課 ヨブ記24章(新共同訳 旧約pp.806-807)
ヨブの言葉が続く。ここでヨブは、友人達の因果応報の原理に基づく考え方の矛盾を具体例を挙げつつ指摘している。
「なぜ、全能者のもとには/さまざまな時が蓄えられていないのか。なぜ、神を愛する者が/神の日を見ることができないのか。人は地境を移し/家畜の群れを奪って自分のものとし/みなしごのろばを連れ去り/やもめの牛を質草に取る。乏しい人々は道から押しのけられ/この地の貧しい人々は身を隠す」(1~4節)。
まず「なぜ神を愛する者が/神の日を見ることができないのか」と疑問を投げかける。そして、この世では、正しい者や弱い者や「貧しい人々」が、「悪人」によって悩まされ苦しめられ、全く顧みられないまま死んでいく現実があることを述べている(2~12節)。
また、世の中には、主なる神の教えに背いて、殺人、「姦淫」、「盗みを働く」者が横行していることを指摘する(13~17節)。このような矛盾は、因果応報の原理では説明することが出来ない。
更に、これに続く18~24節で、ヨブは畳みかけるように因果応報の矛盾と限界を断言している。そのために、ヨブはまず、悪人は忽ち滅びるという因果応報の原理に基づく考え方を述べている。
「暑さと乾燥が雪解け水をも消し去るように/陰府は罪人を消し去るだろう。母の胎も彼を忘れ/蛆が彼を好んで食い/彼を思い出す者もなくなる/不正な行いは木のように折れ砕ける。…権力者が力を振るい、成功したとしても/その人生は確かではない。…だから、しばらくは栄えるが、消え去る。すべて衰えてゆくものと共に倒され/麦の穂のように刈り取られるのだ」(19~24節)。
これは友人達が主張する因果応報の考え方である。しかし、ヨブは断言する。
「だが、そうなってはいないのだから/誰が、わたしをうそつきと呼び/わたしの言葉をむなしいものと/断じることができようか」(25節)。
ヨブは、自分自身に襲い掛かった苦難を通して、現実の中に確かに存在する説明することの出来ない矛盾に目が開かれた。この点で、友人達の現実認識とは決定的な違いが生じていた。
「卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました」(詩編119編71節)。
西原新生バプテスト教会
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