聖書日課 サムエル記上16章(新共同訳 旧約pp.453-454)
サムエルは、ずっと悔やんでいた。それは、彼が油を注いでイスラエルの王としたサウルが、不信仰と反逆の罪のために主なる神によって退けられてしまったからである。
期待を裏切られたことを嘆き続ける気持ちは分からなくはない。しかし、それは決して主なる神の御心ではない。主なる神は、サムエルに叱責と励ましの言葉をかけられた。
「主はサムエルに言われた。『いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。』サムエルは言った。『どうしてわたしが行けましょうか。サウルが聞けばわたしを殺すでしょう。』主は言われた。『若い雌牛を引いて行き、『主にいけにえをささげるために来ました』と言い、いけにえをささげるときになったら、エッサイを招きなさい。なすべきことは、そのときわたしが告げる。あなたは、わたしがそれと告げる者に油を注ぎなさい』」(1~3節)。
嘆きや悲しみの状況を一変させるもの、それは主なる神の御声を聞くことである。そして、その御声に従って行動を起こす時、新たな祝福の道が開かれる。
「サムエルは主が命じられたとおりにした」(4節)。恐れや不安が全くなくなったわけではない(2節)。それでも、彼はとにかく主の御声に従い、「ベツレヘム」に行った。そして、そこで「いけにえの会食」を開き、「エッサイとその息子たち」を「招いた」(5節)。全て主なる神の導きのままに。
エッサイの息子たちを見ると、サムエルはまず長男の「エリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った」(6節)。しかし、この時主は言われた。
「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(7節)。
そして、この後、遂にダビデと出会ったのである(12節)。
サムエルは、ここでも主の御声を聞く必要があった。幼い頃から主に仕え続けてきたサムエルにとって、それこそが一番大切な使命だった。「どうぞお話しください。僕は聞いております」(3章10節)、これは最後の士師であり祭司であったサムエルの生涯にわたる祈りであり、求めであり、姿勢であった。しかと学びたい姿勢である。
西原新生バプテスト教会
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