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沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えます。

聖書日課 サムエル記上23章

聖書日課 サムエル記上23章(新共同訳 旧約pp.466-468)

 逃亡中のダビデのもとに、ペリシテ人がユダの町「ケイラを襲い、麦打ち場を略奪している、という知らせ」が届いた(1節)。ダビデ「行って、このペリシテ人を討つべきでしょうか」「主に託宣を求めた」。それに対し、主は「行け、ペリシテ人を討って、ケイラを救え」と答えられた(2節)。

 しかし、ダビデに仕える兵士たちは恐れた。それもそのはず、彼らは逃亡の身である。サウル王から命を狙われているのに、その上ペリシテ人と相対するのは危険極まりない暴挙であった(3節)。

 しかし、ダビデは再び主の導きを確認すると(4節)、主に従って出陣した。そして、ペリシテ軍に「大打撃を与え、ケイラの住民を救った」(5節)。

 一方、ダビデがケイラに来たと知らされた」サウル王は、ダビデを討とうと全軍を召集して言った。「神がダビデをわたしの手に渡されたのだ。彼は、扉とかんぬきのある町に入って、自分を閉じ込めてしまったのだ」(7~8節)。

 ダビデは、身の危険を感じて祭司アビヤタルを呼び、「主に尋ねた」

イスラエルの神、主よ、サウルがケイラに進んで来て、わたしゆえにこの町を滅ぼそうとしていることを僕は確かに知りました。ケイラの有力者らは、サウルの手にわたしを引き渡すでしょうか。僕が聞いているように、サウルはケイラに下って来るでしょうか」(10~11節)。

 そして、主の答えを確認したダビデたちは、直ちにケイラから立ち去って行った(11~13節)。

 ここで興味深いのは、この時、逃げるダビデダビデを狙うサウル王も、「神」を口にしていることである。これはどういうことだろうか? 一体どちらが正しいのだろうか?

ダビデは荒れ野のあちこちの要害にとどまり、またジフの荒れ野の山地にとどまった。サウルは絶え間なくダビデをねらったが、神は彼をサウルの手に渡されなかった」(14節)。

 この御言葉の通り、主なる神はダビデと共にいてダビデを守っておられた。一方、サウル王は主なる神に仕える祭司たちを殺害している(22章18節)。また、ここにはダビデが主に導きを祈り求めたことが何度も記されているが、サウル王が主の導きを求めたとは記されていない。

 結局のところ、サウルの信仰は単なる習慣もしくは形式だった。積極的に主を捨て去って偶像崇拝に陥っていたわけではなかったが、心から主を求め、心から主に従う姿勢を全く失ってしまっていた。

「主が喜ばれるのは/焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか」(15章22節)。

 主なる神が求めておられるのは形式ではなく心である。心から主なる神を愛し、進んで主なる神に従い、喜びをもって主なる神と共に生きること、それが信仰であり、救いであり、祝福である。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119
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