聖書日課 サムエル記上8章(新共同訳 旧約pp.438-439)
イスラエルの人々は、サムエルに、自分たちにも王が欲しいと願い出た。「他のすべての国民と同じように」、自分たちを導き、敵の手から守ってくれる強力な支配者が欲しいというのである。
「民はサムエルの声に聞き従おうとせず、言い張った。『いいえ。我々にはどうしても王が必要なのです。我々もまた、他のすべての国民と同じようになり、王が裁きを行い、王が陣頭に立って進み、我々の戦いをたたかうのです』」(19~20節)。
このようなことを願い出た背景には、「サムエルが年老い」たことに加えて(1節)、彼の後を継いでイスラエルを裁いていたサムエルの「息子たち」が、「不正な利益を求め、賄賂を取って裁きを曲げ」ていたという事情もあったようである(3節)。
しかし、彼らの本音は主への不信仰にあったことを、主なる神は見抜いておられた(7~8節)。彼らは、真の王である主なる神が自分たちを守り導いて下さるという信仰に立って生きていなかったのである。その代わりに彼らは、他の国と同じように強大な力を持った目に見える人間の王を求めたのである。
イスラエルは、主なる神に愛され、選ばれ、救われた〈神の民〉であった。彼らは、主なる神を愛し、信頼し、聞き従うことによって、主なる神のご栄光を表し全世界に主なる神の救いと祝福をもたらす国民だった。にもかかわらず、彼らは何度も主に逆らい、何度も主を退けてきた。そして、今度も、彼らは真の王である主なる神に信頼するよりも、目に見える人間に頼る道を求めたのである。
イスラエルの歴史は、この時から王政へと移っていく。それは、一時期の繁栄をもたらしました。しかし、その多くの年月は分裂と混乱の日々となった。そして、最後には、不信仰と堕落の故に国もろとも滅んでいった。
目に見えない主なる神よりも目に見える人間に頼る方が簡単…。周りと違っているより周りと同じ方が安心…。誰にでも、そういう傾向がないとは言えない。しかし、信仰は「見えないものに目を注」ぐところにある(コリントの信徒への手紙二4章18節)。目に見えない主なる神にどこまでも信頼を置くところに信仰がある。イスラエルの人々の姿から、自分自身の歩みを振り返りたいと思う。
「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが」(コリントの信徒への手紙二13章5節)。
西原新生バプテスト教会
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