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沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えます。

主日礼拝宣教 2021年8月22日

主日礼拝宣教 2021年8月22日
エゼキエル書18章1~20節(新共同訳 旧約pp.1321-1322)
「罪に対する責任」

 沖縄では20日から22日まで旧盆となっている。この間、人々は、先祖を〈迎える〉ということで、仏壇を掃除したり、お供え物を準備したりする(ウンケー)。そして、親族が集まって食事をした後、先祖をあの世に〈見送る〉ということで、仏壇の前で先祖を拝み、日頃の見守りと子孫の繁栄をお願いする(ウークイ)。
 一方、沖縄では「医者半分・ユタ半分」という言葉があるほど、日常生活における問題をユタに相談する習慣が根強くある。ユタは、相談に対し、先祖供養が足りない、〈御願不足〉(ウガンブスク)に原因があると説明し、放っておくと子孫に災いが降りかかると迫ることもあるようである。
 先祖を大切にもてなすことで子孫は繫栄し、先祖供養をいい加減にすることで子孫に災いが降りかかる。自分が今置かれている状況を、先祖との関係で捉えるという発想は、沖縄だけで見られるものではない。バビロン捕囚の中にあったイスラエルの民もそうだった。だが、今日私達に与えられた御言葉では、罪の結果が世代を越えて影響を与えることはないということが教えられている。

1. 罪を犯した者、その人が死ぬ

「先祖が酸いぶどうを食べれば/子孫の歯が浮く」(2節)は、捕囚のイスラエルの民の間で広く語られていた諺である。先祖が行ったことの報いを、その子孫が受けるという意味である。イスラエルの民は、自分達には罪はないのに、先祖の罪のせいでバビロンに捕囚になったと考え、先祖に対して怒りを感じていた。また、主なる神が、先祖ではなく自分達にこのような仕打ちをするのは不当であると不満を抱いていた。
 それに対し、主なる神は「罪を犯した者、その人が死ぬ」と言われた(4節)。即ち、彼らが主なる神から裁きを受けているのは、自分の罪のせいだというのである。
 確かに、列王記や歴代誌を読むと、歴代の王の罪が積もりに積もって、この時代のイスラエルにおいて破局を迎えたように見えてしまう。だが、その時代を生きていたイスラエルの民が、先祖を反面教師にして、主なる神に従っていたら、裁きが彼らの身に降りかからなかったこともまた事実である。
 実際、マナセ王が「諸国の民の忌むべき慣習に従い、主の目に悪とされることを行った」にもかかわらず(列王記下21章2節)、彼の孫ヨシヤは生きている間、主なる神の裁きを見なかった。ヨシヤが正しく生きたからである。主なる神は、ヨシヤが災いを見ることのないように、裁きを延期された(列王記下22章19~20節)。このように、各時代を生きる一人一人が自分自身に関する責任を負うことになる。
 だが、イスラエルの民も私達も、自分の罪と向き合うことを非常に嫌う。上を見るより、横を見ようとする。その方が楽だからである。私自身、自分が良くないことをして、親や先生から叱られた時、「○○も同じことをやっている」が言い訳の常套句だった。それによって自分が悪いことをやっているという事実が否定されるわけではないにもかかわらず。自分の罪と向き合う代わりに、人を非難し、主なる神を責める態度は、アダムとエバを想い起こさせる。それは罪の原点であり、罪の根はそこにあると言える。
 そこで主なる神は、私達の弱い部分である、自分の罪を棚に上げて、人のせいにすること、特に主なる神が親の罪の責任を子供に負わせるという見方を正される。

2. 父と子それぞれに対する報い

 5~9節で、主なる神がどのような人を「正しく、正義と恵みの業を行」っていると見なされるかについて説明がなされている(5節)。まず主なる神との関係について語られている。正しい人は「偶像の供え物を食べず」「偶像を仰ぎ見」ない(6節)。つまり、偶像礼拝をしない。
 その上で、隣人との関係について語られている。「隣人の妻を犯さず」(6節)、「負債者の質物を返し」(7節)、「利息を天引きして金を貸さず、高利を取らず」「不正から手を引き、人と人との間を真実に裁」くというのは(8節)、律法に忠実に従っている姿である(出エジプト記20章17節、レビ記19章15節、25章36~37節、申命記15章2~3節)。
 主なる神だけを神とする時、私達はその御言葉にも従う。そしてそれが隣人との関係にも影響を与える。それ故、主なる神は「わたしの掟に従って歩み、わたしの裁きを忠実に守るなら、彼こそ正しい人で、彼は必ず生きる」(9節)と言われる。
 一方、10~13節には、「正しい人」である父と正反対のことを行う子の姿が記されている。聖書にはこのような例が沢山記されている。預言者サムエルは「祭司エリのもとにとどまって、主に仕えた」が、「エリの息子はならず者で、主を知ろうとしなかった」(サムエル記上2章11~12節)。そのサムエルの息子も「父の道を歩まず、不正な利益を求め、賄賂を取って裁きを曲げ」るような人物だった(サムエル記上8章3節)。王政になってからも、「主の目にかなう正しいことをことごとく行った」ヒゼキヤの子として(歴代誌下29章2節)、「主がイスラエルの人々の前で滅ぼされた諸国の民よりも更に悪い事を行わせた」マナセが生まれた(同33章9節)。そのマナセの孫で後を継いだヨシヤは「主の目にかなう正しいことを行い、父祖ダビデの道を歩み、右にも左にもそれなかった」が(同34章2節)、ヨシヤの息子であるヨヤキムは「主の目に悪とされることを行った」(同36章5節)。
 そのように悪を行う子に対し、主なる神は「彼は生きることはできない。彼はこれらの忌まわしいことをしたのだから、必ず死ぬ。その死の責任は彼にある」と言われている(13節)。20節に記されているように、「正しい人の正しさはその人だけのものであり、悪人の悪もその人だけのものである」
 キリスト者の親の中には、自分の子供が主なる神から離れてしまったことに苦しみ、悩み、自分を責める方が少なからずいる。逆に、キリスト者の息子や娘で、「親の態度や言葉に躓いた」と言って、信仰から離れてしまう人もいる。確かに親が子供にもたらす影響は大きい。だが、究極的には本人がどうであるかが問われる。親がイエス・キリストを主とする信仰の故に義とされたとしても、その義は子供に転嫁されることはない。私達の信仰は他の人を救うことは出来ない。

3. 私達は周囲の環境の奴隷ではない

「正しい人」「悪人」の判断基準は、その人が主なる神の御言葉に従ったかどうかにある。このことは大きな希望でもある。罪を犯す親のもとに生まれたからと言って、そこから抜け出す希望もなく、一生罪の中を生きてそのまま死ななければならないというわけではないからである。
 14~18節に悪い親のもとで生まれ育った子のことが記されている。その子は、親の強い影響の中にあるので、自分も容易に罪を犯し得る環境にある。また、親の罪の影響の故に苦しむこともあるに違いない。しかし、「父の行ったすべての過ちを見て省み、このような事を行わない」ならば(14節)、主なる神はその子を「正しい人」と見なして下さる。主なる神の裁きは、どのような親の下に生まれたかではなく、その人が置かれた場所で御言葉にいかに従ったかに基づいている。
 今日招きの言葉として詩編42編12節が読まれた。詩編の中には「コラの子の詩」という表題の付いた詩が幾つかある。「コラ」というのは、モーセとアロンがイスラエルの民の指導者であることが気に入らず、徒党を組んでモーセに反逆し、主なる神から裁きを受けた人である(民数記16章1~33節)。だが、彼の子孫は、礼拝の中で主なる神への讃美を導く者として用いられている。先祖は関係ないということである。
 私達は、自分の罪、悪い習慣、悪い感情を、自分が生まれ育った家庭環境、社会構造、文化、或いは自分の受けた教育のせいにしてしまう。そして、この世では「あなたは悪くありません。あなたの環境が悪かったのです。過去を振り返ってみて下さい。あなたの両親はどのような人でしたか? あなたは苦しい生活を強いられてきませんでしたか? 過去に受けた心の傷によって、今のあなたがあるのですよ」というメッセージが溢れ返っている。
 しかし、忘れないでいただきたい。私達は周囲の環境の奴隷ではないということを。私達は罪の縄目から抜け出すことが出来るということを。そして、主なる神は私達を変える力を持っておられるということを。主なる神は、私達の置かれている環境がどんなに酷くても、正しく生きることを求める者に対し、聖霊によって助けを与えて下さる。罪の泥沼にそれまでどんなに深くはまっていたとしても、そこに留まらずに悔い改めるなら、主なる神はその人の声を決して聞き逃されない。主なる神はご自身を求める者に応え、助けて下さる。