聖書日課 民数記21章(新共同訳 旧約pp.248-250)
先の20章ではツィンの荒れ野のカデシュにおける出来事が記されていた。カデシュを北上すればすぐにカナンの地である。しかし、エドムの王は軍を派兵してイスラエルの通過を拒絶した。
そこで、イスラエルは進路を変更しホル山に到着したが、そこで大祭司アロンが死去し、その息子エルアザルが職を受け継いだ。ここまでが20章の記録である。
そして、21章に入り、ホル山を出立した民は、「エドムの領土を迂回し」てカナンに向かうことになった(4節)。
迂回路はかなりの遠回りである。「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われたイエス・キリストの「道」も(ヨハネによる福音書 14章6節)、神の国に行き着くには遠回りに見える。このような道で大丈夫だろうかと不安にもなる。しかし、細かろうとデコボコ道であろうと、〈イエス・キリスト〉という標識の付いた道を歩み続けよう。「命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか」と言われた主の御言葉に信頼して従おう(マタイによる福音書7章14節)。
さて、イスラエルの人々はこの旅路に堪えられなくなり、またもやモーセ達に対する不平不満が噴出した。
「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます」(5節)。
しかし、この時はいつもと違った。モーセが民のために執り成す前に、主なる神が御怒りをあらわにされた。
「主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た」(6節)。
「炎の蛇」とは毒蛇の一種で、火が出るような激しい痛みや苦しみを伴ったのだろう。これに耐えられなくなった民は、モーセに執り成しの祈りを要請した。モーセの祈りに対し、主なる神は次のように答えられた。
「主はモーセに言われた。『あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。』モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た」(8~9節)。
モーセは青銅の蛇を鋳造しそれを旗竿にかけた。蛇に噛まれて苦しみ横たえている人々は、旗竿にかけられた青銅の蛇を仰ぎ見ることによって癒され、生きることが出来た。
イエス・キリストはこの民数記の出来事を取り上げ、ご自分も青銅の蛇のように木に掛けられることになると言われた。
「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」(ヨハネによる福音書3章14~15節)。
確かにイエス・キリストは〈十字架〉という木(竿)に掛けられた。しかし、民数記の場合、蛇が掛けられている。聖書では蛇はサタン(悪魔)の象徴である。両者はどのように符合するのだろうか。
イエス・キリストは私達の罪を引き受けて十字架で死なれた。しかし、その死によってもう一つの出来事が起きた。それはサタンに対する裁きである。これらは表裏一体である。
人間の側から見れば、イエス・キリストは人の罪を引き受けて死んで下さった。しかし、罪の張本人であるサタンからすれば、自分が裁かれたことになる。それがイエス・キリストの十字架の死の意味するところである。
イエス・キリストはご自分の死によって「この世が裁かれ」、「この世の支配者が追放される」と言われた(ヨハネによる福音書12章31節)。また、「裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである」とも言われている(同16章11節)。
自分の罪をイエス・キリストが全て引き受けて下さった。同時に、罪を根拠に私を支配し苦しめてきた悪魔(サタン)が裁かれた。そのように信じて、十字架にかけられたイエス・キリストを見上げる者は、死から命へと移される。
西原新生バプテスト教会
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