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沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 民数記20章

聖書日課 民数記20章(新共同訳 旧約pp.247-248)

 荒れ野で「共同体に飲ませる水がなかった」。人々は「徒党を組んで」水不足をモーセとアロンに訴えると共に、このような荒れ野に導いた彼らを責めた(2節)。

「同胞が主の御前で死んだとき、我々も一緒に死に絶えていたらよかったのだ。なぜ、こんな荒れ野に主の会衆を引き入れたのです。我々と家畜をここで死なせるためですか」(3~4節)。

「同胞が主の御前に死んだとき」とはコラ達による反逆のことである。今もなお、この事件を引きずり、恨みがましく詰る民に対し、モーセとアロンはどのように対応しただろうか。

 主の命令は「あなたは杖を取り、兄弟アロンと共に共同体を集め、彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい」というものであった(8節)。こうして岩の前に民を召集し、モーセが手を上げ、その杖で岩を二度打つと、水がほとばしり出たので、共同体も家畜も飲んだ」(11節)。

 主なる神は「岩に向かって、水を出せと命じなさい」と言われたのに、モーセ「その杖で岩を二度打」った。

 これまで「主がモーセに命じられたとおり」と何度も繰り返されていたのに、この時モーセは御言葉通りに行わなかった。

 主なる神は、民を憐れんで水を出して下さったが、御言葉通りにしなかったモーセとアロンに対し、約束の地に入ることは出来ないと告げられた。

「主はモーセとアロンに向かって言われた。『あなたたちはわたしを信じることをせず、イスラエルの人々の前に、わたしの聖なることを示さなかった。それゆえ、あなたたちはこの会衆を、わたしが彼らに与える土地に導き入れることはできない』」(12節)。

 繰り返される民の不平や不満に耐えかねたモーセは、内心では怒りが込み上げていたのだろう。それが「岩を二度打つ」という行為になって現れたのかも知れない。

 更に、モーセが民に向かって「反逆する者らよ、聞け。この岩からあなたたちのために水を出さねばならないのか」と言ったことの中にも、彼の怒りが感じられる。

 聖書に「人の怒りは神の義を実現しない」とあるように(ヤコブの手紙1章20節)、人が怒るのは、自分を正しいとするからである。つまり、怒りによって自分の義を全うしようとしている。しかし、それは「神の義を実現」することにならない。逆に、神の義を蔑ろにしてしまう。

 また、こうも考えられる。出エジプトの直後にも水不足に陥ったことがあった。岩の前で主なる神はモーセ「あなたはその岩を打て」とお命じになり、モーセナイル川を打った杖」で岩を打つと、岩から水が湧き出た(出エジプト記17章5~6節)。

 モーセは今回も同じだと思ったのかも知れない。以前こうだったから、今回も同じに違いないと勝手に思い込むのではなく、日々主なる神の御言葉に聴き従うことの大切さを教えられる。

 それにしても、出エジプトの立役者とも言えるモーセが、一つの失敗の故に約束の地に入れないことについて、私達は、主なる神は厳し過ぎると思ってしまう。しかし、このことも主なる神の意図という大きな視点で理解する必要がある。

 モーセは〈律法〉を象徴する人物である。律法によるなら、一つでも守れていないことがあるなら、その人は律法に違反している。〈律法〉によって神の国に入ろうとするなら、誰も入ることは出来ないことを、この出来事は予表している。

 また、モーセの死後、ヨシュアが民を率いてカナンの地に入った。この「ヨシュア」という名は「イエス」と同じ語である。律法ではなくヨシュア(イエス)によって神の国に入ることが出来るということを、この出来事は教えている。

 モーセ個人にとっては悲しい出来事であるが、それを用いて主なる神は、新約で実現する真理と恵みを明らかにされた。「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」と言われている通りである(ヨハネによる福音書1章17節)。このために自分の失敗が用いられたとすれば、律法の象徴とされたモーセとしても本望ではないだろうか。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
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