聖書日課 マタイによる福音書26章(新共同訳 新約pp.51-55)
26章は、とても長い章で、「ベタニア」の「シモンの家」で「香油を注」がれる出来事から始まり、最後の晩餐、ユダの裏切り、「ゲツセマネ」の祈り、イエス・キリストの逮捕と裁判、そして、ペトロがイエス・キリストを「知らない」と「三度」否定した出来事が記されている。イエス・キリストが十字架にかけられる時が刻一刻と近づいていた。
「祭司長たちや民の長老たち」は、「カイアファという大祭司の屋敷に集まり」、イエス・キリストをどうやって「捕らえ」て「殺そう」かと相談した(3~4節)。しかし、彼らは、「民衆の中に騒ぎが起こるといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた(5節)。
確かにイエス・キリストは、これらの人々の計略によって捕らえられ、裁判にかけられ、殺された。人間の妬みと悪意によって捕らえられ、死に至らしめられた。しかし、それはあくまでも真実の一面でしかない。イエス・キリストは、決して人間の罪と悪のなすがままになって十字架にかけられてしまったのではない。十字架は、主なる神の御旨であり、主なる神の御計画だった。イエス・キリストは自分を捕らえに来た人々に言われた。
「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである」(55~56節)。
人々は悪意をもってイエス・キリストを抹殺しようとした。しかし、主なる神の御計画はその中にも着々と進められていた。それ故、彼らが「祭りの間はやめておこう」と言っていたにもかかわらず、実際には祭りの最中にイエス・キリストは殺された。何故そうなったのか? それが主なる神の御計画だったからである。全ての罪を取り除く主なる神の小羊として、イエス・キリストは真の過越の小羊となられた。
私達の人生にも、悪や罪に翻弄されているかのように思える時がある。しかし、そのような時にも、主イエス・キリストは私達と共におられ、助け、守り、導き、御計画を進めておられる。だからこそ、使徒パウロはこう言った。
「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(ローマの信徒への手紙8章28節)。
この約束を、私達は決して忘れてはならない。
西原新生バプテスト教会
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