聖書日課 レビ記17章(新共同訳 旧約pp.189-190)
ユダヤ人は、全ての食物から、血を徹底的に取り除くように細心の注意を払っている。それは次の律法の教えを今でも厳格に守っているからである。
「イスラエルの家の者であれ、彼らのもとに寄留する者であれ、血を食べる者があるならば、わたしは血を食べる者にわたしの顔を向けて、民の中から必ず彼を断つ。生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである。それゆえ、わたしはイスラエルの人々に言う。あなたたちも、あなたたちのもとに寄留する者も、だれも血を食べてはならない」(10~12節)。
今日のキリスト者は新約の光の中に生きている。しかし、この律法が意味することは考える必要がある。
「血」は「命」を表す。「血」によって私達の「命」は死から贖われた。旧約時代に祭壇の上で流された動物の献げ物の「血」は、主イエス・キリストが十字架の上で流して下さった「血」を示していた。イエス・キリストは、ご自分の「血」=「命」を身代わりにして、私達の「命」を罪の滅びから「贖い」出して下さった。
このように、「血」は私達の命を贖うほどに尊いものである。だからこそ、大切に取り扱うべきものとされているのではないか。「だれも血を食べてはならない」というのは、そういう意味だろう。
そこで聖餐式のぶどう酒のことを改めて考えてみた。それは、主イエス・キリストが十字架の上で流された「血」を意味するものである。つまり、私達はイエス・キリストの「血」=「命」を飲んで(食べて)いるのである。それは、主イエス・キリストの「血」によって、私達の罪が贖われたことを確認し、感謝をもっていただく礼典である。
私達の命を贖うことの出来る「血」は、主イエス・キリストが十字架の上で流された「血」以外にはない。そのことを覚えるため、その尊さを忘れないために教会は聖餐式を行い続ける。旧約時代に「だれも血を食べてはならない」と言われたのも、「命」を贖う「血」の尊さを忘れないためであったに違いない。
西原新生バプテスト教会
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