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沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 イザヤ書63章

聖書日課 イザヤ書63章(新共同訳 旧約pp.1164-1166)

 1~6節には、悪に対する主なる神の「報復」の預言が記されている。

「『わたしはただひとりで酒ぶねを踏んだ。諸国の民はだれひとりわたしに伴わなかった。わたしは怒りをもって彼らを踏みつけ/憤りをもって彼らを踏み砕いた。それゆえ、わたしの衣は血を浴び/わたしは着物を汚した。』わたしが心に定めた報復の日/わたしの贖いの年が来たので/わたしは見回したが、助ける者はなく/驚くほど、支える者はいなかった。わたしの救いはわたしの腕により/わたしを支えたのはわたしの憤りだ。わたしは怒りをもって諸国の民を踏みにじり/わたしの憤りをもって彼らを酔わせ/彼らの血を大地に流れさせた」(3~6節)。

 主なる神による救いと栄光の回復(60~62章)が語られてきたすぐ後に、同じ主なる神による「報復」と裁きの預言が語られていることに、とても厳粛な思いがする。実に、主の日は、罪を悔い改めた者にとっては救いと解放の喜びの日であるが、罪の中に留まる者にとっては裁きと滅びの悲しみの日となる。

 それにしても、主の「報復」の日に、「わたしは見回したが、助ける者はなく、驚くほど、支える者はいなかった」と言われているように(5節)、その時主への信仰に立つ国は一つもなかった。主による救いと裁きの御業は、主お一人の力によってなされた。

 私はここに、主イエス・キリストの十字架を見るような思いがする。十字架もまた、主イエス・キリストただお一人の力によってなされた御業である。主はたった一人で、全人類の罪を背負い、全ての裁きと怒りを十字架の上で受けられた。その時、人々は彼を嘲笑い、弟子達でさえもイエス・キリストを見捨てて逃げ去って行った。イエス・キリスト「助け」「支える者」は一人も「いなかった」

 しかし、私達の永遠の救いの道は、この十字架によって開かれた。ただ一人の救い主、イエス・キリストによって完成された。そして今、主イエス・キリストは、信じる私達と共にいて下さる。ただお一人で全ての罪と裁きを担い、死と永遠の滅びを打ち破られた救い主が、私達の味方となって、信じる私達の内に住んでおられる。

 だから、何の力もない、誰も助けてくれない、自分の味方となってくれる人は一人もいないという思いに苛まれる時、ただお一人で全てを成し遂げられた救い主が、私達と共におられることを決して忘れてはならない。主は、悔い改めた者の味方となって、速やかに救いと解放の御業を行って下さる。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119

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