4章では、贖罪の献げ物についての規定が記されている。
「主はモーセに仰せになった。イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。これは過って主の戒めに違反し、禁じられていることをしてそれを一つでも破ったときの規定である」(1~2節)。
「油注がれた祭司が罪を犯した」場合(3節)、「イスラエルの共同体全体が過ちを犯した場合」(13節)、「共同体の代表者が罪を犯し」た場合(22節)、「一般の人のだれかが過って罪を犯し」た場合と(27節)、その人の立場によって罪を贖う儀式のあり方が少しずつ違っている。
しかし、全てに共通しているのは、奉納者が献げる動物の「頭に手を置」くこと(4節、15節、24節、29節)、動物の血が流され、また「祭壇の四隅の角に塗」られること(7節、18節、25節、30節)、そして、「脂肪」を全て「祭壇で燃やして煙にする」ことである(8~10節、19節、26節、31節)。つまり、人の立場はどうであれ、罪が赦されるためには、身代わりの命がささげられなければならなかった。
私は、罪を犯した本人が、身代わりとして殺される動物の頭に手を置く瞬間のことを想像すると、身震いするような実感を覚える。たとえ動物ではあっても、何の罪もない命が、自分の罪の身代わりとなって犠牲になるのである! その時、人は、厳粛な思いにさせられ、真の悔い改めへと導かれるのではないか。
これは、感情の伴わない、形だけの残酷な儀式などというものではなく、深い罪の認識を伴う、悔い改めと赦しの儀式である。そして、この時ささげられる動物は、間違いなく、真の身代わりである小羊イエス・キリストを指し示すものである。
新約の時代に生きる私達は、最早動物の犠牲をささげる必要はない。本物の身代わりの犠牲であるイエス・キリストが、十字架の上に御自分の血と命をささげて下さったからである。
その一方で、私達は、旧約時代に生きた人々のように、自分の犯した罪に対し、身震いするほどの思いをもって悔い改めるということがなくなってしまってはいないだろうか? 罪に対する認識が、余りにも浅く、軽く、頭の中だけのものになってしまってはいないだろうか?
旧約の贖罪の儀式は、いにしえの時代の野蛮な儀式などではなく、人を真の悔い改めに導く、貴重な実物教育だったのではないか。
西原新生バプテスト教会
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