聖書日課 レビ記13章(新共同訳 旧約pp.179-182)
本章には、祭司が皮膚病に関する診断をするための規定が記されている。診断の結果、重い皮膚病であることが分かれば、祭司はその人に「あなたは汚れている」と宣告した。それに対し、患者は「衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い」――これは深い悲しみの表現である――、自ら「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわり、「独りで宿営の外に住まねばならな」かった。
「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状がある限り、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない」(45~46節)。
医学的な配慮から、伝染性の病気に罹った人を隔離することが必要であるのは十分理解出来る。今でもそうなのだから、まして数千年も昔であれば、場合によっては民族全体が滅んでしまう危険性もあったかも知れない。
ところが、この後が問題である。この律法の規定を理由に、皮膚病に罹った人が、社会から弾き出され、忌み嫌われる存在として扱われるようになった歴史が存在する。
私は、それは聖書の誤った解釈から生じた悲劇であると考える。
この律法は、決して皮膚病の患者を罪人としているわけではない。確かに「汚れている」と言われている。しかし、それはあくまでも医学的な汚れであり、病気であることを意味していると解釈すべきだろう。「この症状がある限り、その人は汚れている」とあるように、汚れはあくまで症状のためであり、その人自身が汚れているわけではない。
また、たとえ「独りで宿営の外に住まねばならない」としても、それはあくまでも衛生上の措置であって、社会的な疎外を意味しているわけではない。
主なる神は、あくまでも衛生上の措置としてこの規定を設けられたのではないか。罪人のためにさえ、独り子イエス・キリストを捧げて下さった御方が、病で苦しむ人に対し、その尊厳を傷つけることによって更に苦しめるような規定を設ける筈がない。
しかし、歴史の中で皮膚病の患者は、差別され、社会から疎外された状態で生涯を過ごすことを余儀なくされてきた。それは、聖書の曲解から生じた悲劇であり、人間の罪が生み出した暴挙である。正しく聖書を理解するのは、本当に重要なことである。
西原新生バプテスト教会
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