ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えます。

バプテスマ準備クラス 2022年1月9日

バプテスマ準備クラス 2022年1月9日
人間

「人間は神の像にかたどり創造されましたが、神への不従順によって罪に落ちました。故に私たちは聖なる神の怒りと審判の下にあって、神の律法により罪人として定められ死に値する者であります」

 聖書は、救いに私達が与るための最初のステップとして、自分の惨めさを知ることを教えている。これまでに自分が惨めだと感じたことのない人は、恐らく一人もいないだろう。だから、人間は惨めな存在であると言われた時、それに同意する人は多いかも知れない。
 だが、聖書によれば、私達は、主なる神が与えて下さった「律法」によって、初めて自分の本当の惨めさを認めることは出来る。何故なら、私達の惨めさは、個々の具体的な経験というよりも、私達の存在そのものに関わる惨めさだからである。
 聖書が一貫して述べているのは、私達人間は、主なる神によって「神の像にかたどり」善いものとして「創造され」たにもかかわらず、主なる神から離れ、主なる神を忘れ、主なる神に背き、「神への不従順によって罪に落ち」た存在だということである。聖書は、主なる神との関係において、人間の惨めさを捉えている。
 人間の罪の現実は、「神の律法」を守ることが出来ないという無力さとして現れてくる。では、「律法」とは具体的にどのような教えか。「律法」の中核は〈十戒〉である。

「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならないあなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。殺してはならない姦淫してはならない盗んではならない隣人に関して偽証してはならない隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」(出エジプト記20章2~17節)

 旧約聖書の中には、沢山の戒めと法と掟が記されている。その根本と言えるのが〈十戒〉である。全ての「律法」は〈十戒〉の具体的な適用と言っても過言ではない。
 私達は守るべき教えとして「律法」を与えられている。にもかかわらず、その要求を全て満たすことが出来ない。その現実を聖書は「罪」と呼んでいる。

「では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。こういうわけで、律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです」(ローマの信徒への手紙7章7~12節)。

 また、聖書の言う「罪」は、その元の言葉の背景に遡って、〈的を外すこと〉としてしばしば説明されてきた。主なる神を愛するという方向性をもって放たれた矢が、主なる神以外の偶像へと逸れてしまう。隣人を愛するという方向性をもって放たれた矢が、隣人にまで届かず、途中で墜ちてしまう。そればかりか、主なる神と隣人を憎んでしまう。それこそ、「罪」によって支配されている人間の姿である。「律法」に照らされる時、主なる神から離れ、主なる神のことを忘れてしまっている私達の姿が顕わになる。
 このように言われると、反発したくなる人がいるかも知れない。確かに、自分は「律法」が求めることを全て守れているわけではない。主なる神を愛し、隣人を愛していると胸を張って主張することも出来ない。それでも、「聖なる神の怒りと審判の下にあ」り、「死に値する者」であるというのは言い過ぎではないか、と。
 だが、「律法」によって、私達の「罪」の現実が容赦なく抉り出されるからこそ、そこで捉えられている「罪」の赦しと救いもまた、徹底して完全なものであると言える。使徒パウロは、私達の惨めさを映し出す「律法」を、イエス・キリストとの関連において捉えている。

「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません」(ローマの信徒への手紙3章20~22節)。

「それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです」(ガラテヤの信徒への手紙3章21~24節)。

「律法」は、私達の「罪」の現実を抉り出すと共に、私達を「キリストのもとへ導」き、罪から救い出し、真の慰めを与え、新しい歩みへと促す力を持っている。イエス・キリストの贖いの故に、私達は惨めさの中から救い出される。そして、イエス・キリストのものとされる。この希望にしっかりと捉えられているからこそ、私達は絶望することなく、「罪」の惨めさを見つめることが出来る。
「律法」には三つの働きがあると言われる。第一は、これまで見てきたように、神の義(正しさ)を明らかに示すことによって、人間の不義と「罪」を暴くことである。第二に、律法を与えられることによって人間の「罪」が抑制され、社会に秩序がもたらされることである。しかし、代々の教会が特に大切に覚えてきたのは、律法の第三の働きである。律法は、信仰者を励まし、絶えず服従と感謝の生活へと導く。
 私達は何者であり、どのように生きるべきか。主なる神の言葉は、その真実を私達に教えている。主なる神の言葉を通して、私達は、自らの惨めさを知り、そして真の救い主であるイエス・キリストと出会うことが出来る。御言葉に正しく聞くことの大切さを改めて深く受けとめながら、主にあって生きることの恵みと幸いを味わい直したい。