聖書日課 ヘブライ人への手紙12章(新共同訳 新約pp.416-418)
「信仰」という言葉を辞書で引くと、「1. 神仏などを信じてあがめること。また、ある宗教を信じて、その教えを自分のよりどころとすること 2. 特定の対象を絶対のものと信じて疑わないこと」(大辞泉)という説明が出てくる。これが一般的な理解だろう。超越的な存在に対する私達人間の主体的な意識と態度が「信仰」であると考えられている。
だが、「信仰」が私達の意識や態度を土台としているならば、私達の状態と共に揺れ動く。信じているのか信じていないのか、自分でも分からなくなることがあるのではないか。
それに対し、聖書は、「信仰」とはイエス・キリストご自身が創始し、完成したものであると述べている。
「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです」(2節)。
全人類の(私の、あなたの、そしてあの人の)罪を贖うために「恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍」ぶことによって始められ、復活し、「神の玉座の右にお座りになった」ことによって完成したイエス・キリストの救いの御業そのものを「信仰」と呼ぶ。
私達が自分で信じていることを「信仰」と言うのではない。私達自身が自分の「信仰」を完成するのでもない。
もう既に完成された、イエス・キリストの「信仰」がある。私達の状態がどのようなものであっても、私達のために完成された、イエス・キリストの「信仰」がある。ここに私達の希望がある。
イエス・キリストが私達一人一人に、この「信仰」を与えて下さる。福音が心に届き、イエス・キリストを見上げる時、この完成された「信仰」が与えられる。あなたは救われるのである。
イエス・キリストとの関係を与えられ、今日もイエス・キリストを見上げて生活したい。
西原新生バプテスト教会
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