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沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年に伝道開始50年を迎えます。

聖書日課 ゼファニヤ書1章

聖書日課 ゼファニヤ書1章(新共同訳 旧約pp.1470-1471)

 ゼファニヤは、「主の日」の到来を預言した。「主の日」は、主なる神による裁きの日、全ての罪が裁かれ、「荒廃と滅亡」が訪れる日である(14~15節)。どうして、そのような恐ろしい日がやって来るのか。それは、「彼らが主に対して罪を犯したからだ」(17節)とはっきり記されているように、ユダの民の罪のためであった。

 ゼファニヤが預言したのは、ヨシヤ王の時代と言われている(1節)。ヨシヤ王は大規模な宗教改革を行った王である。その頃、ユダ王国は、マナセとアモンという2人の王によって長期にわたって偶像崇拝が取り入れられ、信仰的・政治的に外国の影響下に置かれ、宗教的・倫理的に退廃し切っていた。ゼファニヤは、王家の血筋を引く預言者(1節)として、若くして立ち上がったヨシヤ王の改革を支援したものと思われる。

 しかし、ヨシヤ王の信仰と努力にもかかわらず、ユダの人々の心は真実の悔い改めに至ることはなかった。その改革が上からのものであり、いわゆる草の根からの、つまり民衆のレベルからの改革でなかったことに原因があったと言われている。たとえ偶像やその神殿を打ち壊すことは出来ても、人々の心の中に偶像を求める思いがある限り、そして、主なる神の御前にひれ伏して主を慕い求める心が湧き起こらない限り、真の改革とはなり得ない。人々は、表面では「主を拝み、主に誓いを立てながら/マルカム[偶像の名]にも誓いを立て」(5節)ていた。彼らは、相変わらず「主に背を向け/主を尋ねず、主を求めようとしない者」(6節)だった。

 ゼファニヤは、そのような人々に向かって「主の日」が目前に近づいていることを宣言し、警告した。しかし、それはゼファニヤ自身の声である前に、ユダの民を愛する主なる神の御声であり、主なる神の叫びだった。主なる神は、警告することなしに事を行うことは決してない。必ず前もって呼びかけ、警告し、人々が悔い改めて立ち帰るのを待っておられる。それによって、人々に回復と祝福をもたらそうとしておられる。

 私達は、主なる神が呼びかける声に耳を傾けているだろうか。御声に聞き従って、赦しと癒しと回復の祝福をいただいているだろうか。主なる神は、今日も私達に向かって呼びかけておられる。私達が悔い改めて主に立ち帰るのを待っておられる。