聖書日課 ヘブライ人への手紙5章(新共同訳 新約pp.405-406)
主なる神が人となるとはどういうことだろうか。それは、私達が悪魔から受け、滅びに向かいつつあった誘惑と攻撃を、同じように受けられたということである。
イエス・キリストは、救われなければならない私達と同じ苦しみを経験された。それ故、「無知な人、迷っている人を思いやることができ」た(2節)。
その一方で、苦しみの中で、イエス・キリストは自分の思いを遂げようとはなさらず、ただ父なる神の御旨だけに従い、従順を学ぶために、激しく祈られた。
「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです」(7~10節)。
イエス・キリストの祈りは、十字架に釘付けされた時に絶頂に達する。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカによる福音書23章34節)。
罪に縛られた人間を救おうとされる父なる神の御思いだけを、ご自分の思いとする。それがイエス・キリストを十字架にかけた。十字架にかけられなければ成し遂げることが出来ない主なる神の救いの御業があったからである。
私達は、十字架にかけられたイエス・キリストを見上げる時、救われる。完全なものとされたイエス・キリストの永遠の命が、十字架の上から私達に注がれるからである。
西原新生バプテスト教会
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