聖書日課 ヘブライ人への手紙6章(新共同訳 新約pp.406-407)
イエス・キリストは、人生に疲れ、絶望する者に呼びかけられた。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」(マタイによる福音書11章28~29節)。
そして、イエス・キリストのところに来た者には次のようにお命じになった。
「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(ヨハネによる福音書15章4~5節)。
「豊かに実を結ぶ」とは、私達の人格が練り清められ、イエス・キリストのご人格が私達の中に形作られることである。その時、私達はイエス・キリストの業を行う者となる。そのようにして、主なる神はこの世に神の国(支配)を満たそうとしておられる。
ヘブライ人への手紙の著者は、イエス・キリストが完全な者であるように、私達も成熟を目指して進もうと説いている。
「だからわたしたちは、死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう」(1~2節)。
「成熟」と訳されている言葉は、「完全」という意味である。イエス・キリストは、様々な苦しみや試みの中で自分の思いを遂げようとせず、ただ父なる神の御心の実現だけを求めた。そして、十字架にかけられ、「完全な者となられた」(5章9節)。同じように、主なる神は、私達を「完全な者」とするために、罪の世から選び出して下さった。
勿論、私達は自分の力で完全な者となることは出来ない。しかし、イエス・キリストの枝としてイエス・キリストの中に留まることは出来る。その時、イエス・キリストの完全な命が、枝である私達の中にも流れ込んでくる。そして、私達は、イエス・キリストのご人格という実を結ぶようになる。
自分の思いを実現しようとせず、主なる神の御思いを求め、その実現のために生きる者へと変えられていく。ここに私達を満たす完全な喜びがある。イエス・キリストは言われた。
「だから、あなたがたの天の父が完全であられるよう、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイによる福音書5章48節)。
西原新生バプテスト教会
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