ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えます。

祈祷会奨励 2021年9月29日

祈祷会奨励 2021年9月29日
ヨハネによる福音書3章22~30節(新共同訳 新約p.168)
「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」
新生讃美歌: 21「栄光と賛美を」、232「カルバリ山の十字架につきて」

 バプテスマのヨハネは、ヨルダン川の荒野で悔い改めを説いた。ヨハネは、相手が領主であれ、宗教指導者であれ、主なる神に背いている人間に対しては、臆することなく悔い改めを迫った。そのため、人々は、彼がメシアではないかと思ったほどだった。しかし、ヨハネ自身は、「自分はメシアではない」と公言して隠さず、「自分はあの方の前に遣わされた者だ」と言い表し、決して自分の分を越えることがなかった(28節)。今日はヨハネの姿を通して、私達キリスト者が主の僕としてどのようなことを求められているかについて確認したい。

1. 花婿の介添え人

 ヨハネの弟子達が彼に「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています」と言った(26節)。ここには、イエス・キリストに対するヨハネの弟子達の妬み、或いは焦りのようなものを見ることが出来る。そして、他の人と比較されるような言葉を聞いた時、私達はしばしば心が穏やかでなくなる。イスラエルの最初の王サウルもそうだった。彼は「サウルは千を討ち/ダビデは万を討った」という言葉を聞いて、ダビデに殺意を抱くようになった(サムエル記上18章7節)。
 しかし、ヨハネは弟子の言葉によって心を乱されることはなかった。彼は弟子達に、イエス・キリスト「花婿」で、自分は「花婿の介添え人」であると述べている(29節)。結婚式で人々の注目を集めるのは、言うまでもなく「花婿」「花嫁」である。「花婿の介添え人」「花婿」より目立ってはいけないのは、当然のことである。ヨハネも、「花婿」であるイエス・キリストに人々の注目が集まることを願った。
 教会の活動も、主の僕として、イエス・キリストに栄光を帰すことを願ってなされるものである。そこで自分が注目されることに心を寄せてはならない。宣教は牧師が自分の思想を語る場ではなく、特別讃美は音楽に秀でた人が自分の練習の成果を披露する発表会ではなく、社会問題への取り組みも、イエス・キリストの御名を出して自分の主張を実現しようとするものではない。また、教会はキリストの体であるのに、日本では教派を問わず、「○○先生の教会」という言葉がよく用いられる。もし私達が、イエス・キリストではなく、○○先生に依存するようになったら、それは偶像礼拝である。私達は、イエス・キリストを隠すような奉仕をしてはならない。また、人を見てイエス・キリストを見ないということがあってはならない。

2. あの方は栄え、わたしは衰えねばならない

 ヨハネが真の主の僕であったことは「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」という言葉にはっきり表れている(30節)。
 私達の内が功名心、金銭欲、権力欲といった野心で満ちている時、私達が主の僕として用いられることは困難になる。何故なら、そうした肉の思いは、主なる神の御業を妨害することになりかねないからである。
「わたし」「衰え」ている人は、主の栄光が現れ、主の御心が成就することだけを期待する。主の御心を知った時には、素直にそれに従う。それどころか、使徒達のように、「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び」さえする(使徒言行録5章41節)。しかし、「わたし」「衰え」ていない人は、「自分の立場が失われるのではないか」とか、「自分達の権益が侵されるのではないか」といった心配をして、主の御心に素直に従えず、無意味な抵抗をする。
 ヨハネが主なる神から与えられた任務は、人々にイエス・キリストを示すこと、イエス・キリストのために道を備えることであった。それが彼の働きの全てだった。そして、イエス・キリストが教え始められると、彼の任務は終わった。その時、彼はそのことを謙遜に受けとめた。
 ヨハネは主の僕として命じられたことを忠実に果たした。なすべきことをしなかったり、分を越えて勝手なことをすることはなかった。「あの方」「栄え」ること、私達がその一点のみを追い求める時、自分の名前が有名になったり、自分の勢力が拡大することなど、どうでもよくなる。神の国「わたしは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」と語る、謙遜で忠実な僕を通して拡がっていく(ルカによる福音書17章10節)。

3. わたしは喜びで満たされている

 ヨハネ「花嫁を迎える者は花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている」と述べている(29節)。これは、やせ我慢ではなく、本物の喜びだった。彼はイエス・キリストのもとに人々が集まっていることを心から喜んだ。
 主の僕はイエス・キリストに対して忠実であることを求められる。主の御前に謙遜であることを求められる。主の御命令に服従することを求められる。そのように聞くと、主の僕として生きることは、何の喜びもなく、自由もなく、ただ忍耐するだけのように思われるかも知れない。しかし、実際は逆である。主は、ご自分に仕える僕に、喜びを分け与えて下さる。どんなに小さなことであっても、イエス・キリストの御名が崇められるために役立ったなら、主はそれを喜んで下さる。そして、私達も、そのことの故に、イエス・キリストと共に喜ぶことが出来る。
 主のお役に立てたという喜びは、この世のいかなるものを得るよりも深い喜びである。そのことは、実際にそれを味わったことのある方ならば、よくご存知だろう。ヨハネは主の僕としてこの喜びを持っていた。彼は、「花婿」の喜びを共にする「花婿の介添え人」イエス・キリストと喜びを共にする主の僕であった。
 私達も、主の僕として忠実に生きる時、この喜びに満たされる。この喜びをもって、これからもイエス・キリストに忠実に仕えていこう。

祈り
 天のお父様、今日、私達はバプテスマのヨハネから主の僕の姿を学び、私達もあなたの僕として忠実に歩みたいという願いを与えられました。どうか私達にあなたのご栄光を求めさせて下さい。あなたからの使命を弁えて奉仕をさせて下さい。あなたからいただく喜びをもってあなたに仕える者として下さい。たとえ躓くことがあっても聖霊によって立ち上がらせ、力づけ、主の僕として歩み続けることが出来るようお助け下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。