聖書日課 コリントの信徒への手紙二8章(新共同訳 新約pp.333-335)
パウロは、8章と9章で、エルサレム教会への献金について教え、勧めている。ここでパウロは、マケドニアの諸教会の例を紹介し、それを〈教会に与えられた神の恵み〉と言っている。
「兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう。彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです」(1~2節)。
マケドニアのキリスト者は、激しい迫害による「苦しみ」と「極度の貧しさ」の中にあった。しかし、イエス・キリストを信じる喜びは、「人に惜しまず施す豊かさ」となって表れた。彼らは、エルサレム教会の兄弟姉妹を「助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしい」と、「自分から進んで」献金を「願い出た」(4節)。しかも自分の「力以上に」(3節)献げた。それはパウロの「期待以上」(5節)のものだった。
「彼らはまず主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を献げた」(5節)とパウロが書いているように、献金とは、自分自身を主なる神に献げることでもある。その意味で、献金は、主なる神の恵みに満たされた者による礼拝の行為であり、献身の表明である。
パウロは、コリント教会の人々にも、同じように主なる神の恵みに与ってもらいたいと願っていた。実は、コリント教会で献金は、テトスの指導の下、既に進められていた(6節)。しかし、教会内で問題が発生し、中断されたままになっていた(10節)。それ故パウロは、「この慈善の業」を今こそ「やり遂げなさい」と勧めた(11節)。
しかし、それは決して強制ではなかった。パウロは、献金があくまでも自発的なものであることを願っていた。それ故パウロは、「命令」(8節)ではなく「意見」(10節)として勧めている。それがコリント教会の聖徒達にとって「益になる」(10節)と考えたからである。そもそも、パウロがマケドニアの諸教会のことを書いたのも、コリント教会に自発的な献金を促し、それによって彼らの「愛の純粋さを確かめ」たかったからである(8節)。そしてパウロは、そのような愛の模範として、主イエス・キリストの謙卑についてこう記している。
「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(9節)。
ここに真実な愛がある。イエス・キリストは天の栄光を捨てて、この地上に生まれ、十字架に命を献げ、陰府にまで降られた。それは、罪と貧しさの中にいる私達が、主なる神の豊かな命と喜びに溢れて生きる者となるためであった。キリスト者とは、このイエス・キリストの豊かな恵みによって生かされている者である。
西原新生バプテスト教会
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