聖書日課 マルコによる福音書2章(新共同訳 新約pp.63-65)
「だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」(21~22節)
この言葉は、人々がイエス・キリストに、「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」(18節)と問いかけた時に語られた。
それに対し、イエス・キリストは次のように答えられた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる」(19~20節)
本来、断食は、困難や苦難にぶつかった者が食を断って主なる神に祈ることである。しかし、当時、ヨハネの弟子達やファリサイ派の弟子達が行っていた断食は、宗教的善行としての行為であり、困難や苦難とは直接関わりの無い形式的・儀式的なものになっていた。弟子達は、教会の花婿であるイエス・キリストが来られたので、今は断食が出来なかった。しかし、イエス・キリストが取り去られる時には、彼らも、その苦しみの中で断食をするようになる。
ここで問われているのは、古い形式化した信仰のあり方である。新しい布切れで古い服に継ぎを当てれば、やがて新しい布が縮んできて、破れは一層ひどくなる。また、新しいぶどう酒を、収縮性を失った古い皮袋に入れれば、やがてぶどう酒が発酵して皮袋は破れ、ぶどう酒も皮袋も駄目になる。
同様に、新しい真理と命に溢れた信仰も、古い形式に入れようとすると、忽ち破れて、信仰も形式もどちらも駄目にしてしまうことがある。新しいぶどう酒は、新しい皮袋に。新しい命に溢れる信仰は、新しい形式の中に入れることで初めて生きてくる。
さて、私達の信仰はどうだろうか。私達の信仰は、新鮮で命溢れるものとなっているだろうか。それとも、古い形式に囚われたものになってしまってはいないだろうか。また、私達の皮袋はどうだろうか。新しい命溢れる信仰に相応しい、時代と文化の変化に柔軟に対応する新鮮な皮袋となっているだろうか。それとも、収縮性を失った古い形式になってしまってはいないだろうか。
今、イエス・キリストの言葉に、しっかり耳を傾けていきたい。